明治六年政変
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明治6年(1873年)10月14日に太政官代でいわゆる征韓論争の閣議において、副島は板垣退助と征韓派を代表する形で遣使を主張。しかし、10月23日に西郷隆盛の遣使中止が岩倉具視によって決定されると、西郷に続いて板垣退助・後藤象二郎・江藤新平と共に24日に下野した(明治六年政変)。佐賀県で12月23日に征韓党が結成されると、副島は江藤新平と共に佐賀帰県を促されたが副島は板垣退助に説得され留まった。 下野後、明治7年(1874年)1月12日に副島邸に板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、古沢滋、小室信夫、由利公正、岡本健三郎が集まり「愛国公党」を結成。1月17日に『民撰議院設立建白書』を左院に提出。
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明治六年政変
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「明治六年政変」および「征韓論」も参照 明治6年(1873年)6月、参議板垣退助が朝鮮への出兵を求め、西郷隆盛は大使を派遣することを主張した。西郷は7月頃から自らを使節として派遣するよう要求を始めたが、実美は必ず殺されると反対した。しかし西郷は自ら実美を訪問するなど圧力をかけ、8月17日には閣議で西郷の派遣が決定された。しかしこれは実美が後に「初発僕等の軽率」と認めるように、征韓反対の立場に立つ実美としては失策であった。実美は明治天皇の元を訪れ、「岩倉帰朝の後に熟議」して決定するという「聖断」を受けた。内藤一成はこれは実美の主張をなぞっただけではないかとみている。 岩倉の帰朝後には征韓反対派と西郷らの争いはますます激しくなり、政府分裂を恐れた実美は、10月15日の閣議で西郷の案を決定し、派遣時期については軍備が整うまで決定しないという形で引き伸ばしを図った。しかし征韓反対派の岩倉・木戸孝允・大久保利通が辞表を提出し、いずれにしても政府の分裂は避けられなくなった。心身共に疲弊した実美は10月18日朝に倒れた。実美は胸の痛みを訴えており、家近良樹は狭心症か心筋梗塞、内藤一成は脚気からくる心臓病(脚気衝心)ではないかと見ている。 これをうけて大久保は、岩倉を太政大臣摂行(代理)とするよう働きかけた。岩倉は征韓論争を解決する方法として、明治天皇の「聖断」を仰いだ。10月24日には宮中に影響力をもつ岩倉の意見が通り、西郷らは政府を去った。実美も辞意を伝えたが許されず、12月23日には参内して辞表を提出したが却下され、引き続き太政大臣をつとめることとなった。
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明治六年政変
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詳細は「明治六年政変」を参照 1873年(明治6年)、明治政府では岩倉使節団などの洋行派と、西郷隆盛ら国内残留派の路線対立が激しくなっていた。 10月に大久保ら洋行派が勝利し、西郷や板垣退助らを.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}下野(げや)に追い込んだ。 この年の11月に内務省が設置され、大久保が参議兼任のまま内務卿となったが、この時期に有司専制が確立されたという見解が一般的となっている。 以降、参議による各省の卿兼任が一般的となり、各省は参議による操作を受けることとなった。
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