三条の発病と岩倉の太政大臣摂行就任とは? わかりやすく解説

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三条の発病と岩倉の太政大臣摂行就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:03 UTC 版)

明治六年政変」の記事における「三条の発病と岩倉の太政大臣摂行就任」の解説

10月16日岩倉三条の元を訪れ決断変更求めたが、三条受け入れなかった。しかし対朝鮮戦争考えられる以上、もう一度閣議を行う必要がある合意し10月17日もう一度閣議を行うことで合意した。しかし17日岩倉大久保木戸辞表提出したことで閣議行われなかった。三条大木喬任とともに岩倉邸を訪れて10月18日閣議出席するように説得したが、岩倉受け入れず両者決裂した夜になって三条自邸西郷呼び決定変更示唆したが、西郷はこれに反発していた。 10月18日三条は病に倒れた三条胸の痛み訴えており、狭心症心筋梗塞脚気衝心いずれかではないか見られている。三条は「国事ヲ誤ラントスルニ至ル」「(その罪は)死シテナオ余リアリ」と岩倉書簡出し辞意伝えている。10月19日副島江藤後藤・大木の四人行われた閣議岩倉太政大臣摂行代理)とすることを徳大寺実則要望し明治天皇奏上された。また反征韓派に対す配慮としてもう一度閣議を行う方針決めている。副島らは閣議決定早く上奏させるために岩倉代理就任させようとしたと見られている。 しかし大久保挽回のための「秘策」があると見出した黒田清隆通じて宮内少輔吉井友実働きかけ明治天皇三条邸への見舞い行った後に岩倉邸に行幸させ、岩倉への太政大臣摂行就任命じさせるというものだった10月20日明治天皇行幸実行され岩倉太政大臣摂行就任した佐々木克明治天皇岩倉訪問によって三条発病経緯と遣使による西郷への危害が及ぶ可能性深く知った上で岩倉懸念共有し、また岩倉明治天皇意思確認できたとしている。10月22日西郷板垣副島江藤の四参議岩倉邸を訪問し明日にも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行となっているから三条意見ではなく自分意見奏上するとして引かなかった。四参議は「致シ方ナシ」として退去した。

※この「三条の発病と岩倉の太政大臣摂行就任」の解説は、「明治六年政変」の解説の一部です。
「三条の発病と岩倉の太政大臣摂行就任」を含む「明治六年政変」の記事については、「明治六年政変」の概要を参照ください。

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