三条の発病と岩倉の太政大臣摂行就任
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「明治六年政変」の記事における「三条の発病と岩倉の太政大臣摂行就任」の解説
10月16日、岩倉は三条の元を訪れ、決断の変更を求めたが、三条は受け入れなかった。しかし対朝鮮戦争が考えられる以上、もう一度閣議を行う必要があると合意し、10月17日にもう一度閣議を行うことで合意した。しかし17日に岩倉・大久保・木戸が辞表を提出したことで閣議は行われなかった。三条は大木喬任とともに岩倉邸を訪れて10月18日の閣議に出席するように説得したが、岩倉は受け入れず両者は決裂した。夜になって三条は自邸に西郷を呼び、決定の変更を示唆したが、西郷はこれに反発していた。 10月18日、三条は病に倒れた。三条は胸の痛みを訴えており、狭心症、心筋梗塞、脚気衝心のいずれかではないかと見られている。三条は「国事ヲ誤ラントスルニ至ル」「(その罪は)死シテナオ余リアリ」と岩倉に書簡を出し、辞意を伝えている。10月19日、副島・江藤・後藤・大木の四人で行われた閣議は岩倉を太政大臣摂行(代理)とすることを徳大寺実則に要望し、明治天皇に奏上された。また反征韓派に対する配慮としてもう一度閣議を行う方針を決めている。副島らは閣議の決定を早く上奏させるために岩倉を代理に就任させようとしたと見られている。 しかし大久保は挽回のための「秘策」があると見出した。黒田清隆を通じて宮内少輔吉井友実に働きかけ、明治天皇が三条邸への見舞いを行った後に岩倉邸に行幸させ、岩倉への太政大臣摂行就任を命じさせるというものだった。10月20日、明治天皇の行幸は実行され、岩倉は太政大臣摂行に就任した。佐々木克は明治天皇が岩倉邸訪問によって三条発病の経緯と遣使による西郷への危害が及ぶ可能性を深く知った上で岩倉の懸念を共有し、また岩倉も明治天皇の意思を確認できたとしている。10月22日、西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行となっているから、三条の意見ではなく自分の意見を奏上するとして引かなかった。四参議は「致シ方ナシ」として退去した。
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