岩倉の帰国による巻き返し
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「明治六年政変」の記事における「岩倉の帰国による巻き返し」の解説
9月13日、岩倉が帰国し、三条とともに木戸・大久保の復帰に向けて運動を開始した。岩倉は帰国早々「専ら国政を整え民力を厚すべき」という質問書を各参議に送っており、内治優先の考えを持っていた。また西郷遣使についても即時に行われることではないと主張している。しかし木戸は9月16日から病気となり、参議復帰を拒んだ。木戸は伊藤博文とともに新任参議の罷免を求め、大隈もこれに賛同したが、三条と岩倉はこれは困難であると見ていた。 朝鮮問題の討議は、木戸・大久保の復帰問題が片付いてからということになり、岩倉復帰後も討議は行われなかった。西郷は事態が進展しないことに苛立ち、自殺をほのめかして三条に圧力をかけている。三条は海軍大輔勝安芳の軍備が整っていないという意見をあげ、岩倉とともに遣使の延期方針を合意した。 伊藤の奔走により大久保は10月12日に参議に復帰したものの、木戸は閣議への復帰に応じなかった。大久保は厳しい財政状況の中で戦端を開くのは困難であり、まずは国力を充実させるべきと考えており、維新前からの盟友である西郷と対決する意志を固め、子供たちに当てた遺書を残している。同日、征韓派の副島種臣も参議に復帰している。10月14日、岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張した。板垣・江藤・後藤・副島らは遣使の延期については同意していたものの、西郷は即時派遣を主張した。このため15日の閣議では、板垣・江藤・後藤・副島らは西郷を支持し、即時遣使を要求した決定は太政大臣の三条と右大臣の岩倉に一任されたが、三条はここで西郷の派遣自体は認める決定を行った。しかし期日等詳細は依然として定まっておらず、単に8月17日の決定を再確認したもののにとどまった。三条は自ら軍事権を握ることで、「軍備が整っていない」ことを口実にし、西郷の派遣を遅らせる考えを持っていたが、これを「変説」と受け取った岩倉・大久保・木戸は反発した。 明治6年政変時における征韓派 西郷隆盛(参議・陸軍大将) 江藤新平(参議・司法卿) 板垣退助(参議) 後藤象二郎(参議・左院議長) 副島種臣(参議・外務卿) 征韓派を除く正院の構成員 三条実美(太政大臣) 岩倉具視(右大臣) 木戸孝允(参議) 大久保利通(参議・大蔵卿) 大隈重信(参議) 大木喬任(参議・文部卿)
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