修道学院
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修道学院(しゅうどうがくいん)は、1918年(大正7年)に高野佐三郎が開いた剣道道場。前身は明信館。
概要
1888年(明治21年)、高野佐三郎は警視庁を退職して埼玉県に帰郷し、浦和に「浦和明信館」と称する道場を開いた。以後埼玉県警察部に勤務しながら、千葉、茨城、栃木、山梨、神奈川、東京、北海道に支部を設立した。
1899年(明治32年)、実業家平沼専蔵の後援を受け、一家で東京に移住。1902年(明治35年)10月、東京府麹町区飯田町に「東京明信館」を設立し、明信館本部とした。このとき読売新聞に「其門に遊ぶ子弟無慮四千余人、道場を起こすこと三十九の多きに及び…」と報道されている。館員数は6千余人、警察官や学生を加えると1万人を超えた。
その後佐三郎は東京高等師範学校(のちの筑波大学)の教授をはじめとして東京高等工業学校、早稲田大学、曹洞宗大学、日本体育会体操学校(のちの日本体育大学)、陸軍戸山学校、陸軍士官学校等の剣道師範を務め、学校剣道の発展に尽力した。
1918年(大正7年)5月、剣道を技術の習得に終わらせず人間を教育することを理想として、実業家渋沢栄一の後援を受け、東京府神田今川小路一丁目に「修道学院」を設立した。常時30人~40人の内弟子が寄宿した。
修道学院は中山博道の道場「有信館」と並び戦前の剣道界の勢力を二分した。もっとも、佐三郎は博道より10歳年上であり、博道が上京した当時、すでに佐三郎の明信館は根岸信五郎の有信館と並ぶ名門であった。博道がもし明信館に入門していれば佐三郎の弟子になっていたことになり、佐三郎と博道は生前によくこのことを話し合い、「縁とは面白いものだ」と語っていた。
1965年(昭和40年)10月1日、秩父市の明信館本館は秩父市指定史跡となった[1]。
主な門人
脚注
参考文献
- 堂本昭彦『修道学院の青春』、スキージャーナル
- 堂本昭彦『高野佐三郎 剣道遺稿集』、スキージャーナル
関連項目
明信館
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明治23年(1890年)、浦和に明信館道場を設立し、急速に支部を増やす。明治26年(1893年)、皇太子・嘉仁親王が大宮公園に行啓した際、佐三郎は門人を招集し剣道を台覧に供した。 明治28年(1895年)10月26日から28日まで平安神宮で開催された大日本武徳会主催の第1回武徳祭大演武会に出場し、京都府の井沢守正、徳島県の高木義征と対戦し勝利した。翌年の第2回大会では福岡県の浅野一摩、滋賀県の小関教政に勝ち、当時の剣道界の最高表彰である「精錬証」を授与された。この年、精錬証を授与された人数は出場者460名のうちわずか15名であった。同年、警部に昇任し、日本体育会(現法人日本体育大学の前身)委員も委嘱された。 明治32年(1899年)、実業家・平沼専蔵の後援により、一家で東京に移住。明治35年(1902年)5月、大日本武徳祭大演武会の大家43名の高点試合で優勝し、日本刀と賞与を授与された。同年10月、東京府麹町区飯田町(九段坂)に明信館本部道場を設立。このとき読売新聞に「其門に遊ぶ子弟無慮四千余人、道場を起こすこと三十九の多きに及び…」と報道された。39支部というのは、明治時代の剣道道場の支部数としては異例の多さであった。佐三郎の半生は村松梢風により『秩父水滸伝』として小説化され、その後映画にもなり、この映画を見た多くの若者が明信館に入門した。館員数は6千余人、警察官や学生を加えると1万人を超えた。 明治36年(1903年)4月20日、大阪府で催された第5回勧業博覧会の剣道大会で、有名剣士100余名の中から佐三郎が最優秀者に選ばれ、皇太子から金製記念章と銀製面金絹糸刺し撃剣道具を授与された。明治38年(1905年)4月、剣道教士に昇進する。
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