旧日本軍西部第二部隊営庭跡地にて着工
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「広島市民球場 (初代)」の記事における「旧日本軍西部第二部隊営庭跡地にて着工」の解説
1955年4月、「ナイター球場は市民のレクリエーション施設として、ぜひ建設したいと考えているものの一つ」との公約を掲げた渡辺忠雄が広島市長に当選した。 渡辺は住人の反対運動により家屋の立ち退きすらままならなくなった基町に見切りをつけ、代替として「広島護国神社内の敷地」を建設地とする意向を示した。しかし、同神社の広島城跡への移転問題や都市公園法が絡んでいたため、文部省の文化財保護委員会から猛反対を受け、やむなく1955年10月、さらなる代替として「旧日本軍西部第二部隊営庭跡地(以下、旧二部隊営庭跡地)」を建設地とする考えを示した。だが、同地については合同庁舎建設予定地としていた大蔵省、建設省が譲らなかった。 1955年12月、広島市議の任都栗司と鈴木龍二セ・リーグ会長、河口豪カープ球団代表が石本建設設計事務所でナイター球場の設計について協議し、翌56年の新春に着工することを発表したが、肝心の建設地は一向に決まる気配が無かった。そのため1956年には、怒ったカープ後援会の会員達が、広島駅構内で東京から帰広した渡辺を待ち構え、吊るし上げる事件まで発生した(市長吊るし上げ事件)。 しかし水面下で広島市側は、当時の自民党広島県連会長肥田琢司の協力を得て、大蔵省・建設省に対して、国有地の無償譲渡が受けられる平和記念都市建設法の適用を視野に粘り強く交渉を続けており、ついに当時の一万田尚登大蔵大臣と馬場元治建設大臣を口説き落とした。1956年7月17日、地元政官界の六者会談を経て、ようやく建設地は中央公園の一部である「旧二部隊営庭跡地」に正式決定した。 さらに1956年9月の広島市議会議長選挙による議長交代をきっかけにして広島市議会の勢力図が一変、派閥争いが一旦収束するのを見計らって、地元財界10社で構成する二葉会は翌1957年1月4日、建設資金1億6千万円の寄付を広島市に申し入れた。それまで市議会の派閥争いやボス議員の利権に利用されてはたまらないと、鳴りを潜めていたのである。 1957年2月1日には「広島市民球場建設世話人会」が発足し、2月22日についに起工式が執り行われた。地元建設会社の増岡組が購入したばかりのブルドーザー1台が連日フル稼働し、超々突貫工事の結果、わずか5か月後の7月22日には完工式が執り行われた。同日夜のナイター設備の点灯式には小雨が降るあいにくの天候にもかかわらず、15,000人の観衆が詰めかけた。 以下、当日の完工式に参加した球団関係者のコメントである。 河口豪(球団代表):「8年前カープが結成された時、谷川昇会長は『カープは県市民のものであり、成長に伴って立派な衣装をつけたい』と言われたが、それが実現して谷川さんも草葉の陰で喜んでいられるに違いない。この上は新しい器に立派な選手を強化して、ファンの期待に応えたいと思っている」 白石勝巳:「難波や甲子園よりもこぢんまりとして非常に感じがよい。バックスクリーンもよい。文句を言うところは一つもない。これなら十分張り切ってやれる」 長谷川良平:「マウンドが低い感じがする。確かにどこよりも明るいけれど、カクテル光線はあまり好きではない」 小鶴誠:「球は非常によく見える。内野の土は非常によく締まっているが、外野はまだそれほどでもないので走りにくいが、これは当分のことだろう」
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