日本人ドライバー概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 20:48 UTC 版)
「1997年のF1世界選手権」の記事における「日本人ドライバー概要」の解説
片山右京は6シーズン目のF1参戦を迎えた。4年間在籍したティレルと袂を分かち、前年からフラビオ・ブリアトーレがオーナーとなったミナルディに移籍をしている。だが、この年のミナルディはフル参戦したチームの中で唯一のノーポイントで終わってしまうというチーム環境とマシンしかなく、片山自身も最高位は予選15位(開幕戦)、決勝10位(モナコ、ハンガリー)とシングル順位にも入れず成績的には苦しいシーズンとなった。翌年のオファーももらっていたものの、日本GPにおいて自らの意志として引退することを発表し、6年間のF1ドライバー生活にピリオドを打っている。 日本人として5人目のF1フル参戦ドライバーとなった中野信治であったが、無限の推薦にてデビューし、レースでは2度の6位入賞を果たしたものの、シーズン開幕時点で翌年からプジョーエンジンを使用することも決定するなど、オールフレンチ体制を目指すチームにあって厳しい待遇を受けたと言われることが多い。また、途中で加入したトゥルーリの活躍もあって、パニスの戦列復帰に伴いシーズン途中にてシートを失う危機にも遭遇してしまっている。無限の後押しもあってシーズン途中でのシート喪失という最大の危機は免れたものの、厳しい状況で参戦する結果となった。結局中野のプロストからの参戦はこの年のみとなり、翌年は紆余曲折を経て片山右京が引退して空席となったミナルディのシートを得ることになった。
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日本人ドライバー概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 04:16 UTC 版)
「1992年のF1世界選手権」の記事における「日本人ドライバー概要」の解説
日本人では鈴木亜久里と片山右京の2名がフル参戦を果たした。前年限りで中嶋悟が引退し、入れ替わるように日本人のF1フル参戦3人目となる片山右京がデビューをした。
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日本人ドライバー概要
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「1993年のF1世界選手権」の記事における「日本人ドライバー概要」の解説
この年は鈴木亜久里と片山右京がフル参戦をしている。また、鈴木利男が終盤の日本GPとオーストラリアGPにラルースからスポット参戦を果たした。
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日本人ドライバー概要
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「1994年のF1世界選手権」の記事における「日本人ドライバー概要」の解説
この年は片山右京がシーズンフル参戦を果たしたほか、日本人ドライバーのスポット参戦が多く見られたシーズンであった。 片山右京はF1参戦3年目、ティレル2年目のシーズンを迎えた。開幕戦ブラジルGPで自身初の予選トップ10(10位)に入ると、決勝では5位に入り、初入賞を記録。セナの事故死の後2ヒート制となったサンマリノGPでも5位に入ると、第8戦イギリスGPでも7位でゴールしたが、シューマッハの失格により順位が繰り上がり、6位入賞となった。第9戦ドイツGPでは、当時日本人ドライバー予選順位最高位新記録となる5番手を獲得(それまでは中嶋悟と鈴木亜久里の6位。片山は第10戦ハンガリーGP予選でも5位を獲得した)。入賞自体は3度に留まったものの、ドイツGPでリタイアをするまでの間の2位走行やイタリアGPでの予選14番手から入賞圏内を走行する活躍を見せた。この年の片山の走りは度々注目され、ベネトンから1995年シーズンのシートのオファーを受けたものの、スポンサーの意志もあり移籍は実現せずに翌年もティレルから参戦することとなる。 鈴木亜久里はこの年、条件面での折り合いがつかずにF1浪人状態で過ごしていたものの、開幕早々にジョーダンのアーバインが出場停止処分を受けるに至って、ジョーダンから第2戦パシフィックGPへのスポット参戦のオファーを受け、参戦を果たした。しかし、予選20位とバリチェロからは大きく離され、決勝もマシントラブルによりリタイアとなっている。ジョーダンからはアーバインの出場停止分のサンマリノGPとモナコGPのオファーも受けていたが、鈴木自身の判断によりオファーを断っており、パシフィックGPでの1戦のみの出場にとどまっている。 国際F3000選手権に参戦していた野田英樹が第14戦ヨーロッパGPから最終戦オーストラリアGPまでの3戦にラルースからスポット参戦を果たしている。しかし、ラルースも財政難の状態にあり競争力を持っているマシンではなく、残念ながら大きなアピールはできずに3戦全てマシントラブルによるリタイアという結果に終わってしまった。野田は翌シーズンからシムテックにフル参戦するシートを確保したものの、オフの阪神淡路大震災の発生により、野田のスポンサーからの資金が予定より滞る事態が起こってしまい、開幕からの参戦を断念せざるを得ない状況となってしまった。結果として、不運にも野田が参戦する前にシムテックチームが撤退する事態が起こり、結果として野田のキャリアにおけるF1参戦はこの年のラルースからの3戦のみになってしまった。 国際F3000選手権からもう一人、井上隆智穂が第15戦日本GPのみにシムテックからスポット参戦を果たしている。予選26位から決勝に臨んだものの、レースはあいにくの大雨にたたられ、3周目にスピンアウトしてリタイアとなっている。井上は翌95年シーズンはアロウズにシートを得て、日本人としては4人目のフル参戦ドライバーとなった。
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