日本人ドライバーの概要
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「1995年のF1世界選手権」の記事における「日本人ドライバーの概要」の解説
この年は前年に引き続き、多数の日本人ドライバーが参戦をしている。 鈴木亜久里 前年F1浪人をした(第2戦パシフィックGPにてジョーダンから1戦のみスポット参戦をした)鈴木亜久里は無限ホンダの後押しもあって、無限エンジンを搭載することになったリジェと契約した。亜久里自身は全戦契約のつもりでいたが、チームが発表した契約は共同オーナーのトム・ウォーキンショーが推すマーティン・ブランドルとのシートシェアという変則的なものであった。当初参戦数は半々という話しであったが、シートはブランドルの出走が優先され、シーズン全体でも全17戦中、亜久里は5戦の出場に留まっている。それでも第9戦ドイツGPにて実に4年ぶり(1991年アメリカグランプリ以来)の6位入賞を果たしている。また、第16戦日本GPの予選終了後に引退会見を行い、正式にF1引退を発表しようとしたのだが、予選中のクラッシュによって負傷をしてしまい、決勝には出走できず、そのまま引退する形となった。 片山右京 ティレルで3年目を迎える片山右京であったが、片山自身の不調もあったものの、開幕から投入された新車ティレル・023の戦闘力不足に悩んだ。また、片山自身は第13戦ポルトガルGPのスタート直後に壮絶なクラッシュを経験。左後輪が後方のミナルディのルカ・バドエルの右側前輪に乗り上げでしまい、マシンは7回転半の錐揉み回転にてコースに叩きつけられ、原型を留めない姿にて逆さに停止した。最悪の事態も想定されたが、幸いにも片山は大事には至らずに翌14戦のヨーロッパGPを1戦欠場したのみで復帰を果たしている。成績の面では、入賞なしにてシーズンを終了した。 井上隆智穂 前年の日本GPにてシムテックからF1デビューした井上隆智穂は、この年フットワークからレギュラー参戦を果たし、中嶋悟、鈴木亜久里、片山右京に続き4人目の日本人レギュラードライバーとなった。非力なハートエンジンと資金不足のチームという組み合わせであったこともあり、成績自体は入賞といった記録は残せなかったものの(最高位:予選18位、決勝8位)、それまでの日本人ドライバーと違い自動車メーカーの支援を一切受けずに、自ら見つけたスポンサーを頼りにF1参戦を果たした点は結果的に異色の存在であった。井上は1996年シーズンもミナルディにシートを確保したものの、肝心のスポンサーフィーが約束の期限に支払われない事態が発生してしまい、結局シートを失ってしまいF1参戦は1シーズンに留まっている。 その他の日本人 この年は前年ラルースからスポット参戦を果たした野田英樹もシムテックチームから参戦をすることが決まっていたが、阪神淡路大震災の影響により、野田のスポンサーからの支払われるはずのスポンサーフィーが遅れることが濃厚となったため、第6戦カナダGPからの参戦と決定していた。しかし、第5戦のモナコGPが終わった時点でチームの資金難が明るみになり、野田参戦前にチームが撤退することになってしまい、1995年シーズンの参戦は実現しなかった。結局、野田は以後F1に出走する機会を得ることができず、前年のラルースからの出走がキャリアで唯一のF1出走ということになってしまった。 また、パシフィックが日本で開催されるパシフィックGPと日本GPに山本勝巳を起用しようとしたが、スーパーライセンスが発給されずに断念している。
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