日本の気動車の略史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 17:45 UTC 版)
詳細は「日本の気動車史」を参照 日本の非電化鉄道路線では、1872年(明治5年)の鉄道創業から長らく蒸気機関車が牽引する客車列車を主力としていた。運転経費の低減とフリークエンシー向上に効果のある「自走式車両」の開発も試みられ、1905年に蒸気機関を搭載して自走する蒸気動車が出現したが、1910年代までに限られた両数が製造されたのみで一般化はしなかった。 その後、1921年にはガソリンエンジン動力の「ガソリンカー」が営業運転を開始、列車本数頻発や運行コスト低減のメリットから1930年代には国鉄・私鉄を通じて広く普及した。ディーゼルエンジン動力の「ディーゼルカー」は日本では1928年に出現したが、エンジン技術の未発達から戦前にはほとんど普及しなかった。 1937年の日中戦争勃発以降、ガソリン不足によって内燃動車の新製および運行が年々困難となった。さらに1940年に発生した西成線列車脱線火災事故により、ガソリンカーの火災危険性が指摘された。これに伴いディーゼルカーへの転換が図られることになるが、同時期、戦時体制による燃料そのものの欠乏から、内燃動車の運行自体が一時衰退する。1944年11月、国鉄はガソリン、アルコールによって運転していた気動車の運転を廃止することを表明した。 1950年以降、ディーゼルエンジン技術と燃料供給が改善されると、戦前のガソリンカーに代わってディーゼルカーが隆盛を極めることになった。特に1953年の液体式変速機実用化は、気動車による長大編成組成を可能とし、国鉄での著しい気動車普及の原動力となった。 蒸気機関車牽引列車に比して優れた居住性と走行性能を生かし、気動車による準急・急行列車が出現、さらに1960年には特急列車も登場した。戦後しばらくの間、国鉄線は主要幹線でも電化率が低かったこともあって、気動車は全国で広範に用いられるに至った。 1970年代までには5,000両を超える大量の気動車増備が図られ、日本国有鉄道は世界最多の気動車保有数を誇った時期もあった。しかし、同時期に主要幹線の電化が進展したことで、気動車の地位は徐々に後退する。一方で、極端な車両標準化施策及び労使関係の悪化により、気動車技術の発達も停滞した。 1980年代以降、第三セクター鉄道向け軽量気動車の開発や新型エンジンの出現、電子制御式多段変速機の実用化などの技術改良から性能は大きく改善されたが、数を減らしつつあり、運用路線は主として地方の非電化亜幹線とローカル線に限定されるようになっている。
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