日本の学童疎開の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 17:57 UTC 版)
1941年11月20日 芦田均議員が空襲の危険がある東京・大阪で子供を事前に避難させることを推奨した。 1941年12月16日 勅令防空法施行令にて国民学校初等科児童は、病人、妊婦、老人などと共に事前避難の対象とされた。 1943年10月25日 次官会議決定で、重要都市人口疎開に対する当面の啓発宣伝方針で、「任意の人口疎開」をうたったが、疎開先は自分で探せという意味である。 1943年12月10日、文部省は、学童の縁故疎開促進を発表。 1943年12月21日の閣議で「都市疎開実施要項」を定め、東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などを疎開地区とした。疎開希望者は12%であった。 1944年4月1日現在、国民学校初等科学童の9.3%が縁故疎開をしていた。 1944年4月2日に内務省案が示された。これによれば、東京都国民学校3-6年生のうち20万人を近隣の県に疎開させ、生活費は1か月20円とし、半額を国庫負担とする。実施期間を1年とする。 1944年6月30日の閣議で「学童疎開促進要項」を発表した。 1944年7月5日、防空総本部は「帝都学童疎開実施細目」を定め、実施を勧奨した。実施する政府の方針は1944年7月18日か19日に伝えられた。 1944年7月7日、緊急閣議で沖縄の疎開が決定。 1944年8月4日、20万人規模の疎開の第1陣の児童が東京を発ち、東京都板橋区上板橋第三国民学校の児童が群馬県へ疎開するなどした。 1944年8月16日から沖縄県の九州などへの疎開が始まった。(1944年8月22日、対馬丸、魚雷攻撃をうけ悪石島付近で沈没) 8月22日、沖縄の学童など800名を乗せた対馬丸が米潜水艦に攻撃され鹿児島悪石島近海で沈没。 9月25日には全国で41万6946人の子供が集団疎開していた。 杉山尚医師は宮城県玉造郡鳴子町へ疎開した3795人の健康状態を調査した。時期は6か月後である。1人が亡くなり、のべ695人は結核性疾患、呼吸器性疾患、発熱、頭痛、胃腸疾患、黄疸、ジフテリアに罹患し、158名は病気を理由に集団疎開を取りやめた。食糧の量的質的不足が原因という。 1945年3月9日の閣議で、集団疎開を1年以上継続することを決めた。8月16日に東京都は疎開先の教育を継続すると表明した。 集団疎開児の大部分は1945年11月中に疎開先より引き揚げた。沖縄県から九州に集団疎開した児童は1946年10月、光明国民学校(東京都立光明特別支援学校)が長野県から引き揚げたのは1949年5月28日であった。空襲で家族全部が死亡して戦災孤児となり、引き続き疎開先にとどまった子供もすくなくなかった。
※この「日本の学童疎開の歴史」の解説は、「疎開」の解説の一部です。
「日本の学童疎開の歴史」を含む「疎開」の記事については、「疎開」の概要を参照ください。
- 日本の学童疎開の歴史のページへのリンク