新幹線開発へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:11 UTC 版)
「小田急3000形電車 (初代)」の記事における「新幹線開発へ」の解説
この高速試験で得られたデータは、それまでの研究データの正確さを裏付けるものとなった。車輪横圧はそれまでの車両では4tだったのに対して最大でも2.5tという結果となり、脱線係数も小さかったために速度向上の余地が相当にあると判断された。日本で初の採用事例となったディスクブレーキについては、145km/hから停止までのブレーキの距離は1,000mを超えていた ものの、ブレーキ圧力を上げれば短縮可能と報告された。一方、集電装置の離線率が高くなることについては今後の課題とされた。これらのデータは、その後の車両・軌道・架線などの設計や保守に役立った。 SE車の試験によって、三木の研究成果である「東京と大阪間を4時間半で結ぶ」という可能性は立証され、「東海道本線を広軌や標準軌の別線にすれば最高速度250km/hも可能」との裏付けが作られた。島は後年、この試験については「国鉄内部に対するプロパガンダであった」と述べており、国鉄側の責任者だった石原も、この試験について「将来は新幹線のようなものを電車でできると思い、これの成否のもとになると考えていた」と述べ、この高速試験が新幹線計画への布石だったことを認めている。また、車体設計に携わった三木も、後年「飛行機の設計をいかに鉄道に応用するかを研究し、まずSE車を設計、それから新幹線の設計に取り組んだ」と述べ、SE車が新幹線の先駆けとなった存在であることを認めている。 国鉄内部で設置されていた「電車化調査委員会」において、SE車の速度試験と、翌月に行われた90系電車(後の101系電車)による速度試験の結果を踏まえ、「軽量車両を使用することで、これまでの機関車牽引の特急では実現が困難だった高速サービスが可能」という検討結果がまとめられた。これを受けて、1957年11月12日に東京と大阪の間に電車特急を走らせることが決定した。この電車特急のために20系電車(後の151系→181系電車)の設計が開始され、1959年には完成した151系を使用して新幹線開発のための速度試験とデータ収集が行われることになり、その速度試験では、SE車の記録をさらに更新する163km/hの速度記録が打ち立てられた。 その後、新幹線の開発は本格化し、1963年には新幹線のモデル線区間で256km/hの速度記録が樹立された。三木は、そのモデル線区間での記録について「SE車の試験を元にした計算の通り」としている。 こうした経緯もあり、SE車は「新幹線のルーツ」 や「超高速鉄道のパイオニア」 とも言われるようになった。
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