新劇からPCL・東宝へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:15 UTC 版)
1912年(明治45年)1月9日、東京府東京市赤坂区表町(現在の東京都港区元赤坂近辺)に生まれる。父・鬼武次郎は、近衛師団騎兵連隊に所属する大日本帝国陸軍の軍人であった。 1930年(昭和5年)3月、旧制・青山学院中等部(現在の青山学院高等部を卒業し、同年4月、明治大学に進学する。その後、同学を中途退学し、1932年(昭和7年)2月に友田恭助・田村秋子夫妻らが立ち上げた新劇の劇団、築地座の第一期研修生になり、同年、研修を終えて正式に団員になる。1934年(昭和9年)9月、同座から毛利菊枝、清川玉枝らが脱退、それに同行して創作座の立ち上げに参加する、とする説と、同年同月、ピー・シー・エル映画製作所に入社したとする説があり、いずれの資料でも、同年11月15日に公開された『あるぷす大将』(監督山本嘉次郎)に出演、満22歳で映画界に登場、とする。 同社は前年1933年(昭和8年)12月5日に設立されたばかりのトーキーのための新しい映画会社であり、同社において、「新しい感覚をもった二枚目」と評価され、入社早々助演クラスに位置し、1936年(昭和11年)9月1日に公開された『君と行く路』(監督成瀬巳喜男)では主演の大川平八郎の弟役、1937年(昭和12年)7月1日に公開された『雪崩』(監督成瀬巳喜男)では霧立のぼる(1917年 - 1972年)の相手役として主演する。翌週の同年7月11日に公開された『白薔薇は咲けど』(監督伏水修)では入江たか子(1911年 - 1995年)の相手役を務め、『美しき鷹』(監督山本嘉次郎、1937年)、『新柳桜』(監督荻原耐、1938年)、『四ツ葉のクローバ』(監督岡田敬、同年)、『街に出たお嬢さん』(監督大谷俊夫、同年)と立て続けに霧立の相手役として主演した。同年5月には佐伯が歌った『ヒヤシンスの唄』(作詞佐伯孝夫、作編曲飯田信夫)というレコードが発売されている。その間、同年9月10日には4社合併によって同社は東宝映画になり、佐伯は同社に引き続き東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)に所属した。同年10月に発行された『実業之日本』第19号に、佐伯は「僕の兵役」という特集に小文を掲載しており、この時点以前に兵役に就いていた。
※この「新劇からPCL・東宝へ」の解説は、「佐伯秀男」の解説の一部です。
「新劇からPCL・東宝へ」を含む「佐伯秀男」の記事については、「佐伯秀男」の概要を参照ください。
- 新劇からPCL東宝へのページへのリンク