政治的活動から民間外交へ
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「シドニー・ギューリック」の記事における「政治的活動から民間外交へ」の解説
シドニー・ギューリックが提唱した「移民割当制」は第一次世界大戦後に激増した移民の制限を目的に米国政府が応急的に制定した1921年(大正10年)の臨時移民割当法(英語版) によりその趣旨が採用されたが、日本移民は従来通り日米紳士協定 に準じ、臨時移民割当法の適用をうけなかった。これを不満とする移民規制推進派は臨時移民割当法に代わるべき恒久法に「帰化権なき外国移民の入国禁止」の条項を追加し、日本人を含む一切の東洋人移民を閉め出すことを要求した。この条項を含む法案が米議会下院に提出されるやシドニー・ギューリックは法案成立阻止のため政界、学界などの各方面を奔走し、遂にクーリッジ大統領およびヒューズ国務長官からの賛同を得ることとなったが、議会の大勢を覆すまでには至らなかった。 新移民法(「1924年移民法」=通称「排日移民法」)制定の翌年より米国キリスト教連盟、国際好意協会、全国日米関係委員会および建設的移民法制定委員会の後援をうけ、元検事総長ジョージ・ウィッカーシャム(英語版)らとともに新移民法廃棄の活動を開始してこれに没頭、この活動は、2年後の移民割当数改定の際に、日本移民にも平等に割当制の適用を求める内容の新運動となって台頭するが、かえって規制推進派による反対運動の激化を招いたため、米国政府の自発的改正を待つ方針に転向し、以後は表立った政治的活動を控え、民間外交に活動の中心を移すようになる。なかでも、日本の雛人形に注目し、雛祭りの日に合わせて1万2千体余りの人形(友情人形=「青い目の人形」)を日本に寄贈した親善活動は夙に著名。 「身ヲ挺シテ親日運動ニ尽瘁セル…其功績洵ニ顕著ナリ」として、米国キリスト教連盟引退後の1934年(昭和9年)9月、日本政府(岡田内閣)より勲三等瑞宝章を叙勲された。 シドニー・ギューリックは自著『日本へ寄せる書』において、「支那における排日運動は極めて徹底したものである。一般民衆に排日思想をふき込む許りでなく子供の排日教育にも力を注ぎ、このためには歴史上の事実さへも歪め、虚偽の歴史を教えて子供の敵愾心をそそり、憎悪の念を植え付けていった」「例えば満州は支那本土の一部であるにもかかわらず日本がそれを奪ったと教える。しかし歴史上満州が支那の一部であった事実は未だ一度もなく、逆に支那本土が満州の属国であった歴史上の事実がある位である。これなどは全然逆な事実を教えるものであるが、その目的は一に満州から日本の勢力を駆逐しようとするところにあったわけである」と述べている。 1987年からは、祖父シドニーの活動を知った孫のギューリック3世(メリーランド大学教授)が、その遺志を受け継いでこれを復活させ、毎年およそ10体の友情人形を日本各地の小学校、幼稚園などに贈るために、しばしば日本に招待され夫婦で来日している。
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