政治的活動から民間外交へとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 政治的活動から民間外交への意味・解説 

政治的活動から民間外交へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 22:36 UTC 版)

シドニー・ギューリック」の記事における「政治的活動から民間外交へ」の解説

シドニー・ギューリック提唱した移民割当制」は第一次世界大戦後激増した移民制限目的米国政府応急的制定した1921年大正10年)の臨時移民割当法(英語版) によりその趣旨採用されたが、日本移民従来通り日米紳士協定準じ臨時移民割当法の適用をうけなかった。これを不満とする移民規制推進派は臨時移民割当法に代わるべき恒久法に「帰化なき外国移民入国禁止」の条項追加し日本人を含む一切東洋人移民閉め出すことを要求した。この条項を含む法案米議会下院提出されるシドニー・ギューリック法案成立阻止のため政界学界などの各方面奔走し遂にクーリッジ大統領およびヒューズ国務長官からの賛同を得ることとなったが、議会大勢覆すまでには至らなかった。 新移民法(「1924年移民法」=通称排日移民法」)制定翌年より米国キリスト教連盟国際好意協会全国日米関係委員会および建設的移民法制定委員会後援をうけ、元検事総長ジョージ・ウィッカーシャム(英語版)らとともに新移民廃棄活動開始してこれに没頭、この活動は、2年後移民割当改定の際に、日本移民にも平等に割当制の適用求め内容の新運動となって台頭するが、かえって規制推進派による反対運動激化招いたため、米国政府自発的改正を待つ方針転向し以後表立った政治的活動控え民間外交活動中心を移すようになるなかでも日本雛人形注目し雛祭りの日に合わせて1万2千体余り人形友情人形=「青い目の人形」)を日本寄贈した親善活動夙に著名。 「身ヲ挺シテ親日運動尽瘁セル…其功績洵ニ顕著ナリ」として、米国キリスト教連盟引退後1934年昭和9年9月日本政府岡田内閣)より勲三等瑞宝章叙勲された。 シドニー・ギューリック自著日本寄せる書』において、「支那における排日運動極めて徹底したのである一般民衆排日思想ふき込む許りでなく子供排日教育にも力を注ぎこのためには歴史上の事実さへも歪め虚偽歴史教えて子供敵愾心をそそり、憎悪の念を植え付けていった」「例え満州支那本土一部であるにもかかわらず日本がそれを奪った教える。しかし歴史上満州支那一部であった事実未だ一度もなく、逆に支那本土満州属国であった歴史上の事実がある位である。これなどは全然逆な事実教えるものであるが、その目的一に満州から日本勢力駆逐しようするところにあったわけである」と述べている。 1987年からは、祖父シドニー活動知った孫のギューリック3世メリーランド大学教授)が、その遺志受け継いでこれを復活させ、毎年およそ10体の友情人形日本各地小学校幼稚園などに贈るために、しばしば日本招待され夫婦来日している。

※この「政治的活動から民間外交へ」の解説は、「シドニー・ギューリック」の解説の一部です。
「政治的活動から民間外交へ」を含む「シドニー・ギューリック」の記事については、「シドニー・ギューリック」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「政治的活動から民間外交へ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「政治的活動から民間外交へ」の関連用語

政治的活動から民間外交へのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



政治的活動から民間外交へのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのシドニー・ギューリック (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS