捜索の努力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 04:00 UTC 版)
最初は、ワラタはなおも漂流中であると信じられた。英国王室海軍は、巡洋艦パンドラ(Pandora)とフォート(Forte)(と、後にハーミーズ(Hermes))を配置し、ワラタを捜索した。ハーミーズは、ワラタの最後の目撃の海域の近くで、あまりに大きく、かつ強い波に遭ったので、この船は船体をゆがめ、港に帰って乾ドックに入らなければならなかったほどである。1909年8月10日、南アフリカから海底ケーブルによる電報がオーストラリアに届いたが、それには、「ブルー・アンカー船 かなり遠くで目撃される。ゆっくりダーバンに向かっていく。ワラタである可能性がある。」と記されていた。 オーストラリア議会において下院議長は、議事を停止させ海底ケーブルによる電報を読み上げ、こう言った。「議長は、ただいまわたしに、信頼できる筋からのニュースとして、ワラタがゆっくりとダーバンに向かっていると告げられました。」。アデレードでは、街の鐘が鳴らされたが、しかし問題の船はワラタではなかった。 1909年8月13日、汽船インシズワ("Insizwa")は、ムバシェ川("Bashow" (Mbashe) River)沖合で複数の遺体が見えたと報告した。 1909年9月、ブルー・アンカー・ラインは、ユニオン・キャッスル(Union Castle)の船サビーン(Sabine)をチャーターしてワラタを捜索した。サビーンの捜索は、14,000マイル(約22,530.8キロメートル)に及んだが、しかし何の結果ももたらさなかった。 1910年、ワラタの乗客らの親戚らは、ウェークフィールド(Wakefield)をチャーターし、そして3か月間捜索したが、再び不成功に終わった。ワラタの運命の公式調査は、1910年12月、ロンドンで行われた。なかんずく、船は頭でっかちで不安定だと考えてダーバンで上陸した技師クロード・ソーヤーは、そのときに証言を行った。 1925年、南アフリカ空軍のD・J・ルース(D. J. Roos)は、トランスカイ(Transkei)沿岸上空を飛行中に難破物をみつけたと報告した。これはワラタの難破物であるというのは、彼の見解である。 1977年、ある難破物が、コラ河口(Xora River Mouth)沖に見つけられた。この難破物へのいくつかの調査が、特にエムリン・ブラウン(Emlyn Brown)の指揮のもとで、行われた。しかしながら、今日、コラ河口沖の難破物は、第二次世界大戦中のドイツのUボートの犠牲になった多くの船のうちの1つのそれであったと広く信じられている。なぜワラタが推定位置のそれほど北方で見つけられたかその理由を説明するのはとくに難しいと判った。ワラタの位置を突き止めようとするさらなる試みは、1991年、1995年および1997年に行われた。 1999年、ワラタは南アフリカ西岸沖10キロメートルで見つかったという報告が諸新聞に届いた。エムリン・ブラウンのチームによって指揮されたソナー・スキャンは、輪郭線がワラタのそれと一致するように思われる難破物の位置を実際に突き止めていた。しかしながら、2001年、より綿密な調査によってワラタと難破物の違いが明らかになった。チームは実際には第二次世界大戦で沈没させられた「ネールシー・メドー」(Nailsea Meadow)を見つけていたらしい。 2004年、ワラタを探すことにもう22年間を費やしていたエムリン・ブラウン(Emlyn Brown)は、捜索を断念しつつあると断言した。「わたしはすべての選択肢を使い尽くした。もうわたしはどこを調べるべきかわからない。」
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