才智と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:40 UTC 版)
幼少の頃より才知に富んでおり、官職の伊豆守から「知恵伊豆」(知恵出づとかけた)と称された。 家光は「いにしへよりあまたの将軍ありといへども、我ほど果報の者はあるまじ。右の手は讃岐(酒井忠勝)、左の手は伊豆」(『空印言行録』)と評し、忠勝と信綱が幕府の確立に大きく寄与したことを評価している。また「伊豆守のごとき者を今1人持ったならば心配は無いのだが」と小姓の三好政盛に語った。 柳生宗矩、春日局と共に家光を支えた「鼎の脚」の1人に数えられた。 酒井忠勝は阿部忠秋に「信綱とは決して知恵比べをしてはならない。あれは人間と申すものではない」と評している。 阿部忠秋は「何事にもよらず信綱が言うことは速い。自分などは後言いで、料簡が無いわけではないが、2つ3つのうちいずれにしようかと決断しかねているうち、信綱の申すことは料簡のうちにある」とその才智を認めている(『事後継志録』)。 行政では民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに発展させる基礎を築き上げ、のちの大正11年(1922年)12月に埼玉県で最初の市制を布かれるきっかけになった。信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である。 政治の取り締まりに関して信綱は「重箱を摺子木で洗うようなのがよい。摺子木では隅々まで洗えず、隅々まで取り締まれば、よい結果は生まれないからである」と述べている。それに対してある人が「世の禁制は3日で変わってしまうことが多い」と嘆いていると「それは2日でも多いのだ」と言ったという(『名将言行録』)。 ただしこれだけ多くの人々に評価されていながら、人望は今ひとつで「才あれど徳なし」と評されてもいる。老中首座時代には同僚であった堀田正盛の子・堀田正信にその幕政を批判されてもいる。これは信綱が茶の湯や歌会、舞、碁、将棋などを好まず、くそ真面目に政務を行なっていたためともいわれている。また信綱は下戸で酒を嗜まなかったといわれており、ここにも一因している。信綱の好きなことは暇なときに心を許した者を集めて政治などの話を問答することだったという。 明暦の大火の際、信綱は老中首座の権限を強行して1人で松平光長ら17人の大名の参勤を免除した。徳川頼宣は信綱が勝手に決めたことを非難したが、「このようなことを議すると、何かと長談義に日を費やし無益です。後日お咎めあれば自分1人の落度にしようとの覚悟で取り計らいました。今度の大災害で諸大名の邸宅も類焼して居場所も無く、府内の米蔵も焼けました。このようなときに大名が大勢の人数で在府すれば食物に事欠き、飢民も多くなるでしょう。よって江戸の人口を減少させて民を救う一端となります。万一この機に乗じ逆意の徒があっても、江戸で騒動を起こされるより地方で起こせば防ぐ方策もあろうかとこのように致しました」と述べた。頼宣は手を打って感嘆したという。ちなみに飢民救済のため、信綱は米相場高騰を見越して幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。そのため江戸で大きな利益を得られると地方の商人が米を江戸に送ってきたため、幕府が直接に商人から必要数の米を買い付け府内に送るより府内は米が充満して米価も下がったという。 明暦の大火の時、大奥女中らは表御殿の様子がわからず出口を見失って大事に至らないように信綱は畳一畳分を道敷として裏返しに敷かせて退路の目印とし、その後に大奥御殿に入って「将軍家(家綱)は西の丸に渡御された故、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知して大奥女中を無事に避難させたという(『名将言行録』)。 慶安の変で丸橋忠弥を捕縛する際、丸橋が槍の名手であることから捕り手に多数の死者が出ることを恐れた信綱は策を授けた。丸橋の宿所の外で夜中に「火事だ」と叫ばせた。驚いた丸橋が様子を見ようとして宿所の2階に上ってくると、その虚をついて捕り手が宿所内に押し寄せて丸橋を捕らえたという(『名将言行録』)。
※この「才智と評価」の解説は、「松平信綱」の解説の一部です。
「才智と評価」を含む「松平信綱」の記事については、「松平信綱」の概要を参照ください。
- 才智と評価のページへのリンク