才能と作業の手法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:05 UTC 版)
ベタ塗りを時折編集者などにやらせていたのが、後のアシスタント制度に繋がった。飯沢匡がそれを面白がり、「ベタマン」という小説にして発表したが、手塚に批判的な漫画評論家などから「手塚は一人で描いていない」という非難を浴びるようになり、第三回小学館漫画賞受賞(1957年)以降、長年漫画賞から遠ざかることになった。 手塚のアシスタントであったわたべ淳は、手塚が鉛筆で下書きをせずにペン入れしていたことを証言している。フリーハンドでかなり正確な円や直線を描くことができ、揺れるタクシーや飛行機の中でもかなり正確に描いたという(常に原稿の締め切りに追われていた手塚は、乗り物の中で作品を仕上げることも少なくなかった)。インクは開明墨汁を愛用し、『マンガの描き方』でも推薦している。死去の前年には林家木久蔵(現・木久扇)に「木久蔵さん、僕はね、丸が描けなくなった」と体の衰えを語っている。その一方で手塚は自分の漫画について「絵ではなくて記号」であること(漫画記号論)を繰り返し強調しており、その背景には手塚のデッサン力に対する負い目があったとも言われている。作品の中で自身の画力を自虐的に扱うシーンを入れる事も度々であった。 上記の通り常に原稿の締め切りに追われていた。これは、自身の漫画のネタとしてもたびたび登場している。理由は、来る仕事をほとんど拒まなかったためである。締め切りを守らず、編集者を待たせることから一部の編集者からはペンネームをもじって「ウソ虫」「遅虫」などと呼ばれていたという。 漫画の技法を自ら開拓していく傍らで、劇画が流行すると自身の絵に劇画タッチを取り入れ、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』が流行すると『どろろ』で妖怪マンガを繰り出し、『劇画』が主流の雑誌「ガロ」に対抗して、トキワ荘のメンバーである藤子不二雄や石ノ森章太郎といった『漫画』を主流にした雑誌「COM」を自ら立ち上げるなど対抗することも多かった。 速読にも長けており、500ページ程度の本を20分前後で読破したという。喫茶店などで打ち合わせの前に本屋に立寄り、立ち読みした本から得たアイデアを語り、「多忙なのに、先生はいつ勉強しているのか」と編集者を不思議がらせた(手塚眞講演)。 漫画の製作に取り掛かりながら、別の雑誌の編集者とまったく別のテーマの漫画のアイデアについて電話で話していたこともあるという(手塚眞講演)。 手塚は極度の激務家だったことで知られ、睡眠時間は1日わずか4時間程度で、それ以上に眠ることはほとんどなかったと言われる。全盛期は月に数日程度しか眠らないこともしばしばであった。手塚の死後、93歳まで健在だったライバルの水木しげるはエッセイ漫画『睡眠のチカラ』の中で、自分は1日10時間の睡眠を実践することで長生きができたと語り、反対に手塚は徹夜ばかり続けていたために早死にしてしまったと指摘していた。
※この「才能と作業の手法」の解説は、「手塚治虫」の解説の一部です。
「才能と作業の手法」を含む「手塚治虫」の記事については、「手塚治虫」の概要を参照ください。
- 才能と作業の手法のページへのリンク