手習いではない用途
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 18:22 UTC 版)
明治時代の学者大矢透は著書『音図及手習詞歌考』の中で、いろは歌の「製作の理由」について次のように述べている。 或る時代に於いて、当時普通に使用せる仮名の一音中、最も普通なるを撰びて、四十七字を得、以て寂滅為楽の教旨を意味せる七五四句の歌体となして、口誦に便し、以て子女の、習字の手本に適せしめたるなり。是或る僧徒が、人世必須の事項を利用し、わが宗旨を布及せんとする手段と為せるものなり。 要するにいろは歌は「或る僧徒」が「わが宗旨を布及せん」とするため「子女の、習字の手本に適せしめたる」ものとして作られたということである。大矢透のこうした解釈が濫觴となり、いろは歌は手習いをするための手本として作られ、用いられたと現在一般にはみなされている。しかしいろは歌の現存最古の例である『金光明最勝王経音義』は、「子女の、習字の手本に適せしめたる」用例とは明らかに言い難いものである。 上でも触れたように『金光明最勝王経音義』のいろは歌には、各々の文字に四声をあらわす声点という点が付いている(付いていない文字もある)。四声とは、漢字のひとつひとつに備わっているアクセントである(六声ともいう)。この四声で、漢字の音のどの部分が高いか低いかを示す。 日本語と中国語は音節の構造が異なるので、日本語で読む漢字の音は中国語そのままの発音にはならない。たとえば漢字の「天」(Tiān)は、日本語では「テン」と2音節にして発音するしかなかった。それでも平安時代には、漢字の音を中国語の原音になるべく近づけて発音しようとしており、個々の漢字に定まっている四声もその一環として、そのアクセントの型通りに発音するよう学習されていた。 この『金光明最勝王経音義』には和訓、すなわち日本語にも四声の声点がアクセントの高低を示すために利用され付けられている。しかしいろは歌に付けられた声点は、アクセントの高低が各字各行ばらばらであり、これといった決まりや約束に基づいて付けられてはいないようにみえる。 小松英雄は、いろは歌とは手習いの手本ではなく、もとは漢字音のアクセントを習得するための誦文だったと主張している。それは「ことばの抑揚についての感覚を鋭敏にし、音節相互間の高低関係を容易に把握できるようにして、漢語の声調を身につけさせよう」としたものであった。つまり、いろは歌を唱えることによって音の高低がどのようなものかを学び、それをもとに漢語のアクセントの高低を覚えさせる。『金光明最勝王経音義』で出鱈目に付されているように見えるいろは歌の声点も、いろいろなアクセントの型に合わせて唱えられるようにするためのものであった。『金光明最勝王経音義』より後に伝わる真言宗系の文献にあるいろは歌も、このような用途で使われた。小松英雄は声点によって施されたいろは歌のアクセントを、「旋律」と仮に呼んでいる。 また『金光明最勝王経音義』を含む古い文献において、いろは歌が七字区切りになっているのは、この「旋律」を唱える上で七文字が都合のよいひとまとまりだったことによるものであり、同じ音が重複しない理由についても、重複させない事で音の高低を、どの音が高いか低いかを速やかに指し示すためであるとした。そして音の重複しない誦文を覚えるには、文脈があったほうが覚えやすい。文脈があって音(文字)の重複が無いことにより、いろは歌はのちに手習いの手本としても使われるようになったのである。小松英雄はあめつちの詞や大為爾の歌も、本来こうした目的のために作られ、用いられたとして次のように述べている。 これら誦文(あめつちの詞、大為爾の歌、いろは歌)を一括して「手習詞歌」と呼ぶことは、おそらく、大矢透に始まるのであろう。もし先蹤があったとしても、それが定着したのは右の書名(『音図及手習詞歌考』)からである。そして、その名称とともに、これらの誦文の基本的役割についての認識も学界に定着した。しかし、阿女都千(あめつち)や以呂波が手習に使われた証拠をあげ、また、その目的にふさわしい外的な特質をそなえていることを指摘してみても、それらの誦文が、まさにその目的に供するために作られたことの証明にはならない。それはちょうど、ブランディーが外傷の消毒のために醸造されたことを証明するのと同じような誤りをおかすことになる。
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