惑星エコニアの騒乱
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「銀河英雄伝説の戦役」の記事における「惑星エコニアの騒乱」の解説
宇宙暦788年/帝国暦479年11月。タナトス星系に所属する惑星エコニアは、総人口の34パーセント以上を帝国軍の捕虜が占める「収容所惑星」である。将官の捕虜はおらず、捕虜で構成される自治委員会が存在し、第2次ティアマト会戦以来実に43年間収容され続けているケーフェンヒラー大佐が、一貫してその長を務めていた。そして、歳月が過ぎるうちにケーフェンヒラーはいつの間にか収容所の真の主扱いされ、捕虜だけではなく同盟軍将兵からも一目置かれるようになっていた。 ヤン・ウェンリー少佐が参事官として赴任した当時の捕虜収容所所長は、コステア大佐であった。大佐は裏で武器の横流しや公金横領を行っており、「エル・ファシルの英雄」ヤンをその摘発にやってきた秘密監察官と思い込み、若手捕虜のプレスブルク中尉を利用し、ヤンの謀殺を目論んだ。 プレスブルクを中心とする捕虜数名が、捕虜の居住棟の巡回に出ていた副所長ジェニングス中佐を拉致して人質に取り、エコニアからの脱出を企てた。交渉の結果ジェニングスと、ヤンと参事官補のパトリチェフ大尉で人質交換が行われたが、ここまではコステアとプレスブルクが予め打ち合わせていた通りであった。以後の事についてプレスブルクがどのように聞かされていたかは不明だが、コステアはプレスブルクの暴動に乗じてヤンもろとも彼を殺し、公金横領の罪もパトリチェフに押しつけることを企図していた。 プレスブルクらが立てこもっていた東十七号棟にコステアは砲撃と突入を命じたが、コステアの知らぬうちに合流していたケーフェンヒラーの手引きでヤン・パトリチェフ・プレスブルクと生き残った脱走兵は窮地を逃れ、プレスブルクとパトリチェフの働きでコステアの身柄を確保した。 砲撃のとばっちりでジェニングスが負傷していたため、エコニア軍人の最高地位にあるヤンがタナトス警備管区に騒乱の発生と鎮定を報告。タナトス警備管区司令官マシェーソン准将の代理として参事官ムライ中佐がエコニア入りし、事態の収拾にあたった。拘束と監視から解放されたコステアは、騒乱をヤンの責任と申し立てたが、すでにコステアの不正蓄財を調べあげていたムライは彼を断罪。拘禁、のちに軍法会議にかけることを通達した。 コステアに乗せられたとはいえ、同盟軍士官を拘束したプレスブルクは一週間の独房入り、のちに別の収容所へ移送。パトリチェフは「ヤン少佐は統合作戦本部の秘密監察官」と発言したことのみを譴責される。ヤンはおとがめなし。ヤンとパトリチェフの危機を救い、エコニア収容所の不正を暴くのに貢献したケーフェンヒラーには恩赦が与えられ、釈放が決まるとともに退役大佐待遇での年金が支給されることとなった。 騒乱を聞いたキャゼルヌは、この際辺境の収容所人事を刷新しようという軍の思惑に乗じて、ヤンを同盟首都星ハイネセンに呼び戻す。ケーフェンヒラーや同じく配置換えとなったパトリチェフとともにハイネセンへと向かう途上、惑星マスジットの宇宙港で、ケーフェンヒラーは心臓発作を起こし急逝する。マスジットの公共墓地にケーフェンヒラーを埋葬し、彼の遺品とともにハイネセンに帰着したヤンと、パトリチェフは「またごいっしょに仕事ができれば嬉しいですな」と握手して別れている。 のちにヤンは、この一件で知遇を得たパトリチェフとムライを第13艦隊の幕僚に迎えるが、道原かつみの漫画版でのパトリチェフのセリフによれば、その間8年「いっしょに仕事」はできなかった模様である。 なお、小説版ではこの一件と第二次ティアマト会戦の秘話をからめた長編「螺旋迷宮(スパイラル・ラビリンス)」が、全編の最終エピソードになっている(1989年)。
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