志賀高原と長野電鉄とは? わかりやすく解説

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志賀高原と長野電鉄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:32 UTC 版)

長野電鉄2000系電車」の記事における「志賀高原と長野電鉄」の解説

志賀高原観光地として開発長野電鉄大きく関わっている。むしろ「志賀高原長野電鉄作った」とさえ評し得る。 長野電鉄は、1927年昭和2年)に湯田中温泉に至る山の内線(現・長野線信州中野駅以北)を開業させたが、当初から温泉はじめとする観光資源豊富さ着目していた。 元々、この地域豪雪地帯で、大正時代からスキー始まっていた。当時長野電鉄社長であった神津籐平は、地元共有地である周辺山地租借、「志賀高原」とネーミングし、1929年昭和4年)からリゾート地として広く宣伝した。「志賀」とは、神津の出身地である長野県佐久地方志賀村(現・佐久市)に因む命名である。 折しも同年2月ノルウェースキー連盟副会長であるヘルゼット中尉親善来日して志賀高原滑走したが、彼は志賀高原スキー適地評価し、「東洋サンモリッツだ」とコメントした。また同年8月には秩父宮夫妻近傍岩菅山登山行ったことで、「志賀高原」の名前は全国知られることになったその後も神津らの尽力により、観光ホテル建設道路電力などのインフラ整備が行われた。 さらに、当時鉄道省日本国有鉄道前身)が日本各地観光振興図っていたことも追い風となった昭和初期国家政策として若者のスポーツ奨励され時代でもあり、東京から土曜午後夜に列車スキーにでかけることが流行り始めたスキー適地として知名度高めた志賀高原は、鉄道省長野県からも観光地として有望視され、1935年昭和10年)には鉄道省国際観光局によって最初の「国際スキー場指定受けている。 このように志賀高原新興観光地ありながら第二次世界大戦前から著名な高原リゾート地になっていたのであった戦時中逼塞期、また戦後一時期進駐軍によるリゾート地として接収時期はあったものの、戦後1940年代末期になると志賀高原にも再びスキー客が訪れようになった進駐軍命令により1947年昭和22年)には日本初スキーリフト設置されている)。1949年昭和24年)には志賀高原を含む長野群馬新潟県周辺の山岳地帯が「上信越高原国立公園」に指定されている。この好条件背景に、長野電鉄地元自治体協力して観光振興推進した自動車普及する以前時代であり、志賀高原への交通手段長野電鉄独占していた。冬になると多数スキーヤー信越本線接続駅長野駅屋代駅から長野電鉄電車乗り換え志賀高原向かっていたのである当時長野電鉄志賀高原不可分存在であった

※この「志賀高原と長野電鉄」の解説は、「長野電鉄2000系電車」の解説の一部です。
「志賀高原と長野電鉄」を含む「長野電鉄2000系電車」の記事については、「長野電鉄2000系電車」の概要を参照ください。

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