幸町_(徳島市)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 幸町_(徳島市)の意味・解説 

幸町 (徳島市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/13 13:55 UTC 版)

日本 > 四国地方 > 徳島県 > 徳島市 > 幸町
幸町

さいわいちょう
日本
都道府県 徳島県
市町村 徳島市
地区 内町地区
人口
2025年令和7年)1月
 • 合計 404人
等時帯 UTC+9 (JST)
郵便番号
770-0847

幸町(さいわいちょう)は、徳島県徳島市町名。内町地区に属している。幸町1丁目から幸町3丁目までがある。郵便番号は〒770-0847。

統計

2025年1月。徳島市の調査より。

  • 人口:404人
  • 世帯数:247世帯

地理

徳島市の中心駅徳島駅の南東、内町地区(ひょうたん島)の南部に位置している。

西の富田橋通り(一部は通りの西まで広がる)と東の牟岐線に挟まれた南北に細長い町で、北から1~3丁目が並ぶ。北は道を挟んで寺島本町東と接し、南は新町川に面している。

1丁目は国道192号が東西に貫いており、オフィス街となっている。2丁目から3丁目北部にかけては、徳島市役所を中心に徳島市民活力開発センターや徳島税務署等の徳島市の公共施設が集中している。3丁目南部の新町川河岸は、中洲総合水産市場や住宅街である。

毎年お盆阿波踊りの時期には徳島市役所前に「市役所前演舞場」が設営され、多くの観光客でにぎわう。

地形

歴史

江戸時代は武家地で、現1丁目には稲田屋敷(徳島藩筆頭家老)、現2丁目と3丁目北部には賀島屋敷(徳島藩家老)があった。その南の3丁目の大半は、新町川の河道だった。

ただし現幸町公園付近の富田橋通り沿いには、助任新軒から移された魚屋が並ぶがあった。のち(明治)の内魚町(うちうおまち)である。1675年ごろには魚ノ店または魚ノ棚、1810年ごろには魚町と呼ばれた。出身の堺屋秦与兵衛の店があったため堺丁、あるいはその他に撞木町、竹屋ノ浜とも呼ばれた。藩から許可を受けた専売商人の町で、武家向けの魚を売っていた。一方、町人向けの魚は新町の新魚町だった。

明治期には

  • 稲田屋敷跡 - 現 1丁目。
  • 賀島屋敷跡 - 現 2丁目(市役所周辺)・3丁目北部。昭和初期まで徳島県庁舎が置かれた。
  • 塀裏町土手外 - 現 3丁目の大半、南内町3丁目・中洲町も含む
  • 内魚町 - 現 2~3丁目の富田橋通り沿い。一部は現在の幸町外に広がる。

となった。

かつては東は寺島川に面していた。稲田屋敷と賀島屋敷の間に架かる渭津橋(のちの徳島橋)は、寺島側両岸を結び、江戸時代には徳島城鷲の門に通じていた、交通の要所だった。1961年、寺島側は埋め立てられ徳島橋は撤去され、代わって、そのやや北に建設された幸町立体交差国道192号牟岐線をアンダーパス)が東西の交通路となった。同年9月の第2室戸台風水害でこのアンダーパスは水没した。

施設

とくしまホール

公共施設

公園

教育

企業

その他

交通

道路

一般国道

バス

徳島バス徳島市営バス

出典

  1. ^ 内町まちづくり協議会・徳島市内町公民館『写真で見る内町再発見 ひょうたん島今昔』2009年。新蔵町には接していないとする住宅地図があるがおそらく間違い。

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「幸町_(徳島市)」の関連用語

幸町_(徳島市)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



幸町_(徳島市)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの幸町 (徳島市) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS