山形での競争への対応
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「大沼 (百貨店)」の記事における「山形での競争への対応」の解説
1965年(昭和40年)には売場面積では7,427m2とライバルの丸久の9,500m2を下回っていたにもかかわらず売上高19.7億円で丸久の16.9億円を上回るなど山形の地域一番店の座を獲得し、1967年(昭和42年)に十字屋、緑屋、長崎屋、田丸屋、オビジョー、1972年(昭和47年)10月のダイエーなどのライバルとなる大型店が七日町に続々と進出する中で競争を続けると共に、1965年(昭和40年)に山形市の乗用車の登録台数が3,244台で人口100人辺り1.7台だったのが、1975年(昭和50年)には31,775台、1985年(昭和60年)には64,327台で人口100人辺り26.8台と急激に進んで全国平均(23.0台)を上回るほど進んだモータリゼーションに対応し、1972年(昭和47年)3月に大沼パーキングを開設した。このほか、1983年(昭和58年)には地域産業振興室を設立して、大分県の一村一品運動の山形県版・民間版に取組み、44市町村の住民・役所などと共に山海の名産品を発掘して売り出すなど地域密着の営業活動を続けた。 しかし、1975年(昭和50年)3月に国道13号山形バイパスが全通、同年4月に山形県庁が七日町周辺から移転して七日町の来街者が減るようになり、昭和50年代頃から郊外のロードサイドに出店した大型店との競争が始まった。1991年(平成3年)7月31日の山形自動車道開通に伴い隣接する宮城県仙台市への道路アクセスが便利になったことに加え(仙台都市圏、ストロー効果を参照)、1997年(平成9年)11月28日のジャスコ山形北ショッピングセンター開業、2000年(平成12年)11月22日のイオン山形南ショッピングセンター開業といった郊外への大型ショッピングセンター進出に伴い中心市街地から大型店が撤退するなど周辺の商店街の地盤沈下が進んだことや消費の低迷の影響を受けて、1997年(平成9年)2月期の売上高165.8億円で経常利益0.94億円だったのが、2000年(平成12年)2月期に売上高143.67億円と落ち込んで2.19億円の経常損失となるなど、業績低迷に苦しんだ。2005年(平成17年)2月期まで3年連続の減収、2年連続の最終赤字となるなど業績が低迷していた。山形県内陸地方一帯も商圏とする仙台市の百貨店など商業施設との競争にも晒された。 こうした苦境を打開するため、2004年(平成16年)に元伊勢丹常務取締役の鈴木勝雄が、大沼の取締役相談役に就任した。鈴木は「現場無気力症候群」に陥っていることを原因と見て、経営側と労働者が5人ずつが参加する「労使協議会」を作り、課題の解決に向けた話し合いなどから、組織や人員の簡略化によってやる気を引き出し、商圏が狭い地方都市の特性を社員全員が理解して把握させるために、全員週に1度お得意様回りをさせて生活に密着した商品の展示となるように品揃えを変更するなど、改革に取り組んだ。2006年(平成18年)2月期には売上高は88億1100万円(天童・新庄店売上を含む)で前期比9.8%減と引き続き減少したものの、不良在庫の整理などのリストラの効果で最終利益は3期ぶりに黒字転換を果たした。
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