山下商店の発展と太平洋戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 01:51 UTC 版)
「山下太郎 (アラビア石油)」の記事における「山下商店の発展と太平洋戦争」の解説
大正3年(1914年)、白石元三郎(日本鋼管社長)の後援を得て山元オブラート株式会社を設立する。これが山下の実業家としてのはじまりであった。こののち鈴木菊次郎からオブラート製造の特許を取得、会社はキャラメル包装などで業績は良好、会社も黒字となったが、山下は海外貿易に意欲を示し、その資金調達のため5,000円で権利を売却した。 第一次世界大戦が勃発すると、ドイツから輸入していた硫安がストップしたため、アメリカからの輸入を試み成功、巨利を得た。大正5年(1916年)小島文子と結婚し、東京深川に「山下商店」を設立。穀物・鉄鋼の海外貿易に目を向けて奮闘し、わずか28歳にして数百万円の財を成している。同年、ロシアのウラジオストクで鮭缶の買い占めに成功するが、ロシア革命のあおりで地方新政権が船積みを許可せず、外務秘書官(当時)の松岡洋右の協力でようやく船積みの許可を得ている。 一方、大正7年(1918年)に日本国内では米価が暴騰、米騒動が各地に発生したが、山下商店は外米の輸入に取り組み上海で江蘇米を調達する。しかしその契約を密輸だとして原則論を強硬に主張する有吉総領事の妨害で輸入は失敗に終わった。大正9年(1920年)には南満州鉄道(満鉄)消費組合と5万石の納入契約を結ぶが、満鉄側が契約を一方的に破棄し大損害を被る。また友人の渋沢正雄が1トン当たり1,075円で1万トンの鉄材購入契約を行ったが、戦後恐慌で1トン当たり75円に暴落、連帯責任者として大負債を負った。ほとんど破産の状態であった。しかし、満鉄経営に新体制が敷かれ、旧知の松岡洋右や長野護が着任したことで山下商店は息を吹き返した。 大正11年(1922年)、事業家としてふたたび満鉄事業に関係し、開拓企業を助けた。大正13年(1924年)、満鉄は上述の米の契約で山下に損害を負わせた代償として社宅建設管理契約を結び、山下商店は満鉄本社(大連市)の社宅2万戸の建設と管理を包括受注した。これにより、山下は「満洲太郎」と呼ばれるようになり、以後、彼の事業網は日本国内はもとより満州、中国、朝鮮、台湾まで拡大した。 昭和11年(1936年)、故郷の秋田県大森町に山下学館を寄贈している。また、翌昭和12年には、楠木同族会の会長として兵庫県神戸市の湊川神社に大鳥居を寄贈した。 戦前期の山下は、日魯漁業、日東化学、日本軽金属など数多くの会社に関係した。しかし、昭和20年(1945年)の太平洋戦争敗戦で在外資産はすべて没収されてしまった。なお、山下は大正15年から終戦までの20年間にわたって郷里の大森町に奨学金を寄付しつづけている。
※この「山下商店の発展と太平洋戦争」の解説は、「山下太郎 (アラビア石油)」の解説の一部です。
「山下商店の発展と太平洋戦争」を含む「山下太郎 (アラビア石油)」の記事については、「山下太郎 (アラビア石油)」の概要を参照ください。
- 山下商店の発展と太平洋戦争のページへのリンク