小津安二郎の助監督から東宝劇団へ
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1910年(明治43年)2月16日、長崎県長崎市に生まれる。父・平塚広義(1875年 - 1948年)は、当時は内務省の官僚であり、長男の廣雄(九重京司)は父が各地の知事を務めるたびに各地を転々とし、廣雄が15歳のころ、1925年(大正14年)9月16日には東京府知事に就任している。農芸化学者・文化功労者の平塚英吉(1888年 - 1984年)は父の弟であり、廣雄には叔父にあたる。 慶應義塾大学文学部英文科に入学、満21歳を迎えた1931年(昭和6年)3月、同学を卒業する。卒業後は、同年4月に三井生命保険に就職する。しかしながら俳優を志しており、新興キネマ京都撮影所に転職すべく画策するが、当時台湾総督府総務長官であった父の反対を受ける。阪急電鉄の創業者、小林一三の紹介を受けて、松竹キネマに入社、助監督として松竹蒲田撮影所に配属になる。1933年(昭和8年)2月9日に公開された小津安二郎(1903年 - 1963年)が監督したサイレント映画『東京の女』、同年4月27日に公開された同監督の『非常線の女』の「監督補助」(フォース助監督)としてクレジットされた記録が残る。 同年中には、小林が経営する東京宝塚劇場本社(現在の東宝)に移籍した。同社では、建設中であった東京宝塚劇場が翌1934年(昭和9年)1月1日に開場、同劇場で結成した東宝劇団(第一次)の俳優になる。その後、同社で昇進し本社事業部長を任命され、そのまま日本は第二次世界大戦に突入していくなか、1942年(昭和17年)に結婚して、家庭を築く。この時期、事業部長として東宝移動劇に関わっており、志賀口正雄を伴い、1940年(昭和15年)9月30日の夜11時に古川緑波邸を訪れている。東京宝塚劇場は、1943年(昭和18年)12月、系列会社の東宝映画を吸収合併して東宝になる。同年、九重は、自らが演出を務めていた「東宝舞踊隊」の大陸慰問記として、『花の戦記』を上梓している。1945年(昭和20年)8月15日、大戦が終結、同年末には東京宝塚劇場が占領軍に接収され「アーニー・パイル劇場」になるが、九重は占領軍のための将校クラブを経営する。同年12月24日の『古川ロッパ昭和日記』によれば、「すきや橋畔の、キャバレエー目下準備中で明いてゐるから」と古川に好意で稽古場を貸している。1950年(昭和25年)には、震災に焼けた明治座が再建され、同年11月30日に開場、九重は同座の文芸部長に就任する。
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