小津安二郎の助監督から東宝劇団へとは? わかりやすく解説

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小津安二郎の助監督から東宝劇団へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 04:55 UTC 版)

九重京司」の記事における「小津安二郎の助監督から東宝劇団へ」の解説

1910年明治43年2月16日長崎県長崎市生まれる。父・平塚広義1875年 - 1948年)は、当時内務省官僚であり、長男の廣雄(九重京司)は父が各地知事務めるたびに各地転々とし、廣雄が15歳のころ、1925年大正14年9月16日には東京府知事就任している。農芸化学者文化功労者平塚英吉(1888年 - 1984年)は父の弟であり、廣雄には叔父にあたる。 慶應義塾大学文学部英文科入学、満21歳迎えた1931年昭和6年3月同学卒業する卒業後は、同年4月三井生命保険就職するしかしながら俳優志しており、新興キネマ京都撮影所転職すべく画策するが、当時台湾総督府総務長官であった父の反対を受ける。阪急電鉄創業者小林一三紹介受けて松竹キネマ入社助監督として松竹蒲田撮影所配属になる。1933年昭和8年2月9日公開され小津安二郎1903年 - 1963年)が監督したサイレント映画東京の女』、同年4月27日公開された同監督の『非常線の女』の「監督補助」(フォース助監督)としてクレジットされた記録が残る。 同年中には小林経営する東京宝塚劇場本社現在の東宝)に移籍した同社では、建設中であった東京宝塚劇場が翌1934年昭和9年1月1日開場、同劇場結成した東宝劇団第一次)の俳優になる。その後同社昇進し本社事業部長任命されそのまま日本第二次世界大戦突入していくなか、1942年昭和17年)に結婚して家庭を築く。この時期事業部長として東宝移動劇に関わっており、志賀口正雄を伴い1940年昭和15年9月30日の夜11時に古川緑波邸を訪れている。東京宝塚劇場は、1943年昭和18年12月系列会社東宝映画吸収合併して東宝になる。同年九重は、自らが演出務めていた「東宝舞踊隊」の大陸慰問記として、『花の戦記』を上梓している。1945年昭和20年8月15日大戦終結同年末には東京宝塚劇場占領軍接収されアーニー・パイル劇場」になるが、九重占領軍のための将校クラブ経営する同年12月24日の『古川ロッパ昭和日記によれば、「すきや橋畔の、キャバレエー目下準備中明いてゐるから」と古川好意稽古場貸している。1950年昭和25年)には、震災焼けた明治座再建され同年11月30日開場九重同座文芸部長に就任する

※この「小津安二郎の助監督から東宝劇団へ」の解説は、「九重京司」の解説の一部です。
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