寝台列車の出現
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戦後の1950年代以降、日本国内の鉄道では全体の輸送量が著しく増大した。また、1941年に一時廃止されていた三等寝台車が1956年に復活。比較的低廉な運賃で寝台利用が可能になったことで、寝台車そのものへの需要も高まった。なお三等寝台車は、1960年より二等寝台車、1969年よりB寝台車となった。 東海道本線全線電化に伴う1956年11月のダイヤ改正では、東京 - 博多間特急列車「あさかぜ」が新設される。10両編成中に寝台車が5両を占め、当時としては寝台車の比率が高かった。これは好成績を収めた。更に1957年10月からは、東京 - 大阪間夜行急行の「彗星」の組成を変更。14両編成(うち1両は荷物車)中、座席車は最後尾の三等座席指定車1両のみで、残り12両はマロネ40形など二等寝台車とナハネ10形などの三等寝台車が半数ずつだった。この列車は、列車番号が戦前の「名士列車」と謳われた17・18列車と同じで、二等寝台車の割合が他の列車に比べて高かったことから「名士列車の再来」と言われた。この「彗星」を、「(本格的な)寝台専用列車の嚆矢」と見る考え方もある[要出典]。 1958年には日本初の固定編成客車として20系客車が登場、特急「あさかぜ」に投入された。13両編成中旅客車は座席車が3両のみで、他はすべて寝台車だった。なお、編成には食堂車・電源荷物車各1両が含まれた。 翌1959年9月には、常磐線経由の上野 - 青森間夜行急行「北斗」が寝台列車化された。12両編成中、食堂車1両、荷物車2両のほか、二等寝台車2両、三等寝台車6両で、座席車はやはり三等座席指定車1両のみだった。あぶれた座席利用客は、同じ区間を雁行する急行「十和田」を全車座席車編成として救済している。 なお、「彗星」・「北斗」に1両だけ座席車が連結されていたのは、1950年代より1960年代初頭の寝台車に緩急車がほとんど存在しなかったためである。夜行急行列車の寝台列車化措置は、当初は列車全体の居住性改善や保守・点検の合理化などの目的があったとされる[要出典]。
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