寝台列車の出現とは? わかりやすく解説

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寝台列車の出現

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:30 UTC 版)

寝台列車」の記事における「寝台列車の出現」の解説

戦後1950年代以降日本国内鉄道では全体輸送量著しく増大したまた、1941年一時廃止されていた三等寝台車が1956年復活比較低廉運賃寝台利用可能になったことで、寝台車そのものへの需要高まった。なお三寝台車は、1960年より二等寝台車1969年よりB寝台車となった東海道本線全線電化に伴う1956年11月ダイヤ改正では、東京 - 博多特急列車あさかぜ」が新設される。10両編成中に寝台車が5両を占め当時としては寝台車比率高かった。これは好成績収めた。更に1957年10月からは、東京 - 大阪間夜行急行の「彗星」の組成変更14編成(うち1両は荷物車)中、座席車最後尾三等座席指定車1両のみで、残り12両はマロネ40形など二等寝台車とナハネ10形などの三等寝台車が半数ずつだった。この列車は、列車番号戦前の「名士列車」と謳われた17・18列車と同じで、二等寝台車割合が他の列車比べて高かったことから「名士列車再来と言われた。この「彗星」を、「(本格的な寝台専用列車嚆矢」と見る考え方もある[要出典]。 1958年には日本初固定編成客車として20系客車登場特急あさかぜ」に投入された。13編成旅客車座席車が3両のみで、他はすべて寝台車だった。なお、編成には食堂車電源荷物車各1両が含まれた。 翌1959年9月には、常磐線経由の上野 - 青森夜行急行北斗」が寝台列車化された。12編成中、食堂車1両、荷物車2両のほか、二等寝台車2両、三等寝台車6両で、座席車はやはり三等座席指定車1両のみだった。あぶれた座席利用客は、同じ区間雁行する急行十和田」を全車座席車編成として救済している。 なお、「彗星」・「北斗」に1両だけ座席車連結されていたのは、1950年代より1960年代初頭寝台車緩急車がほとんど存在しなかったためである。夜行急行列車寝台列車措置は、当初列車全体居住性改善保守・点検合理化などの目的があったとされる[要出典]。

※この「寝台列車の出現」の解説は、「寝台列車」の解説の一部です。
「寝台列車の出現」を含む「寝台列車」の記事については、「寝台列車」の概要を参照ください。

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