宇土城主時代とは? わかりやすく解説

宇土城主時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:34 UTC 版)

小西行長」の記事における「宇土城主時代」の解説

天正15年1587年)の九州平定天正16年1588年)の肥後国人一揆討伐に功をあげ、九州大名監督権博多町割り奉行という重要な役割を担うようになり、また、肥後国の南半国宇土益城八代の三郡20万石余り与えられた。 天正17年1589年)、宇土古城の東の地(現在の熊本県宇土市古城町)に新たな宇土城築城し、本拠とした。小丘陵城山頂上本丸、西に二の丸・堀と石垣三の丸配しそれぞれを堀と石垣囲んだ近世城郭であった鎌倉時代末期宇土氏によって築かれ宇土古城とともにみると、翼を広げているように見えたことから「の城」の異名を持つ。 この宇土城普請に従わなかった天草五人衆とは戦になり(天草国人一揆)、これを加藤清正とともに平定天草1万石あまりも所領とした。秀吉は、後の朝出兵視野入れて水軍統率する行長肥後封じたという。なお、行長天草出兵関し一般的には行長自身では一揆鎮圧できず、清正援軍頼んだように思われているが、実際は、行長清正渡海思いとどまらせようと説得したものの、行長更なる水軍強化清正恐れたため、天草攻略強引に割り込み両人一揆制圧することになったもの。天草諸島は,天草国人衆のもとで活動する海上勢力地盤であり、「唐入」を控えて海上勢力海上能力掌握課題とする豊臣政権にとって、天草統治は非常に重要だったこの後天草人口32/3にあたる23千がキリシタンであり、60人あまりの神父30教会存在したという。志岐氏所領である志岐には宣教師要請によって画家でもあるイタリア人修道士イルマンジョバンニ・ニコラオ派遣されニコラオ指導下で聖像学校営まれ油絵水彩画銅版画教えられ画・聖像の製作、パイプオルガン時計などの製作が行われていた。学校は後の文禄3年1594年)、有馬半島八良尾のセミナリオ合併し規模拡大したが、これらイエズス会活動行長援助与え保護した行長宇土城水城として優れた機能持っていたというが、秀吉意を受け相良氏統治時代からこの地域海外貿易中心地であった八代(徳淵津)にも、麦島城築城して水利強化し重臣小西行重城代として配置した行長従来山頂にあった古麓城廃して麦島城球磨川八代海面する河口の島に建て、堀から外水を引きれて浮城としたので、直接、船で出入りできた。このほか隈庄城木山城矢部城愛藤寺城支城とし、隈庄城に弟の小西主殿介、愛籐寺城に結城弥平次一族重臣城代任じている。また高山右近旧臣キリシタン)が多く家臣取り立てられた。 しかし、残り肥後北半国を領した清正とは次第確執深めることになった後述)。

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