学術研究と公的活動
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同年9月より、イギリスのオックスフォード大学マートン・カレッジに留学し、日本美術史を専攻した。海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行う。女性皇族の中では珍しく、学問研究に専念して、2010年(平成22年)1月にオックスフォード大学大学院博士課程を修了して、博士号(D.Phil.)を取得した。博士号取得は総合研究大学院大学博士(理学)の秋篠宮文仁親王に続き、皇族として2人目、女性皇族として史上初、海外の大学からの課程博士号取得は皇族として史上初となった。 研究がまとまった2009年(平成21年)秋に日本に帰国して、公募採用で同年10月1日より京都の立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェローに就任した。グローバルCOEプログラム日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点日本文化研究班に所属。皇族としての公務の合間、同機構でデータベース化作業を行う。 ポストドクトラルフェローの任期が切れた2012年(平成24年)4月より2014年(平成26年)12月まで上皇明仁の幼稚園時代の学友で銀閣寺(慈照寺)住職を務める臨済宗相国寺派管長有馬頼底に依頼し、宗教法人慈照寺研修道場美術研究員に就任している。同月一般社団法人心游舎を発起人代表として設立し総裁に就任。また2012年(平成24年)4月1日より2013年3月まで、立命館大学衣笠総合研究機構の特別招聘准教授を、2013年4月から2014年3月まで、同客員准教授を務めた。2012年(平成24年)5月1日からは法政大学国際日本学研究所客員所員も務め、文部科学省国際共同に基づく日本研究推進事業欧州の博物館等保管の日本仏教美術資料の悉皆調査とそれによる日本及び日本観の研究に従事、ドレスデン美術館やポーランドに出張した。 2012年(平成24年)6月6日に薨去した寬仁親王の斂葬の儀に於いて喪主を務めることが宮内庁より発表された。この時、信子妃に代わって寬仁親王の姉妹(彬子女王のおば)である近衞甯子と千容子の助けや、彬子女王同様に若くして喪主を務めた経験がある東久邇信彦(元皇族)の励ましを受けたと、後に雑誌に寄稿している。また、同手記では、寬仁親王の薨去をきっかけに、両親の確執から疎遠であった三笠宮本家(祖父である崇仁親王)との絆が強固になったことに、深く感謝している旨を記している。 父母が療養中かつ、自身が留学中だった時期には、妹の瑶子女王が公務を代わりに務めた。 2013年(平成25年)6月12日に、寬仁親王の後任として日本・トルコ協会総裁に就任。2014年(平成26年)4月、京都市立芸術大学芸術資源研究センター特別招聘研究員及び公益社団法人日本職業スキー教師協会総裁に就任。2015年(平成27年)4月、中近東文化センター総裁に就任した。 2018年(平成30年)1月、2017年3月9日付でトルコ政府に認可されている三笠宮記念財団総裁に就任することが発表される。 2020年(令和2年)4月、千葉工業大学特別教授および千葉工業大学地球学研究センター主席研究員(非常勤)に就任。 2022年(令和4年)3月1日、寛仁親王薨去後空席となっていた日英協会名誉総裁に就任した。
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