大衆的になっていく山下人気
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「日本のアウトサイダー・アート」の記事における「大衆的になっていく山下人気」の解説
山下のことはその後、第二次世界大戦を挟んだせいもあり世間から忘れられたが、1954年(昭和29年)1月、突然の様に山下の話題が持ち上がった。朝日新聞社会部の記者、矢田喜美雄から持ちかけられ、式場隆三郎と朝日新聞が、山下清の行方を捜すキャンペーンをはじめたのである。新聞以外に、ラジオでも広報はなされた。山下にはもともと放浪癖があって、ときどき八幡学園からいなくなるのだが、この時は鹿児島にいて、新聞掲載の四日後とすぐに見つかった。山下はキャンペーンで「日本のゴッホ」と名付けられ、有名になっていく。式場は、山下のちぎり絵とゴッホの絵を比べて、「彼(山下)自身のハリ絵が点描的なので(ゴッホの作品)と実に近似感がある」と評したが、服部は、両者の作品は似ていないし、症例も類似しないとする。三頭谷はむしろゴッホより、同じ印象派のクロード・モネとの類似を指摘する。にも拘らず山下がそう称されたのには、前年の「ゴッホ生誕百年祭」をはじめとする式場によるゴッホの啓蒙の成果があったためと服部は見る。もっとも山下自身は、ゴッホにはさほど興味がなかったようではあるが。 式場はさらに、「特異児童」の絵画全体に関わっていくようになった。1955年(昭和30年)3月に、東横百貨店(東京都渋谷区渋谷)で滋賀県の落穂寮の作品の展覧会を、1956年(昭和31年)の3月から4月まで、「山下清作品展」を大丸(東京都中央区八重洲)で開催した。この山下展は、八十万人の観覧者を集めたほどの盛況ぶりだった。両作品展には知的障害者へのカウンセリングのための教育相談室が設置され、多数の相談者が訪れたという。これには、式場の、障害者教育への情熱が背景にあった。服部は、現在までの日本のアウトサイダー・アートの特色として、教育との強烈な結びつきを挙げるが、これは、式場の時代からすでに示されていた傾向だという。そして、以降、山下への、さらにはアウトサイダー・アートに対しての美術界のアプローチも、ほぼ絶えていったのであるが、その理由を服部は、山下人気の立役者である式場が前述のように美術界から無視されていたこと、はたよしこは、あまりにも式場の活動が教育よりだったために、美術界から、美術とは無関係のものであると看過されたこと、小出由紀子や三頭谷鷹史は、山下が大衆的な人気を集めるようになったことが以降の無視の一因であると指摘する。 以上の様に戦後の山下ブームが戦前のブームと違う点は、その作品自体より、山下自身が人気を得たことにある。戦前でも、山下を中心とする八幡学園の生徒の障害という点は関心を持たれたのであるが、戦後においては、山下一人に人気が絞られ、また、その愛すべきキャラクターと芦屋雁之助主演のドラマなどマスメディアでの宣伝により、美術界の沈黙とは裏腹に山下清の名は日本中に大きく知れ渡った。 なお、式場のほかには、精神科医の呉秀三による患者の創作文字についての報告もみられる。
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