大衆演劇時代(昭和5年-昭和15年)
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「木村学司」の記事における「大衆演劇時代(昭和5年-昭和15年)」の解説
浅草に移り父が医院を開業。医者の大学を勧められ受験するが二年浪人する。中学の頃から芝居に興味を持ち劇場に頻繁に足を運んでいた学司は、浪人中に「プペダンサント」を結成した榎本健一が脚本を募集していた事を知り一晩で「ミス浅草」というコメディーを書き上げ投稿。榎本に認められ次回上演する事となる。 これをきっかけにあちこちの脚本を書き始める。画家の長谷川利行と親しかったのもこの頃で、彼が描いた学司の肖像画は現在でも残っている。作家の世界で生きていくためには根本から勉強しなければならないと考え父を説得し、1932年(昭和7年)に新設された明治大学文芸科に入学、第一期生となる。本格的に劇作家としての勉強が始まったのはこの時期からである。 1938年(昭和13年)、木内興行部の文芸部員となる。サンデー毎日の募集に応募し、小説「公園裏の記」で佳作入選。後に大きく関わりをもつこととなる村上元三、花村奨と出会ったのもこの頃であった。篭寅興行部と契約を結び、浅草は松竹座、神戸松竹劇場、湊座、大阪弁天座、名古屋の新歌舞伎座など広範囲で脚本を手がける。 女剣劇の普及に力を注いでいた学司は、1939年(昭和14年)、紀元2600年を記念する仕事として「女剣劇脚本集 喧嘩紅梅(外二篇)」を出版。女剣劇正論の中で、「偉大にして光輝ある女剣劇の樹立こそ、銃後女性への貢献であり、現今演劇界の最も欲求するところのものであります。その使命を完遂する時に、その将来は、か丶つて燦然と光輝くでありませう。」と述べている。 以降、大江美智子[要曖昧さ回避]、不二洋子、浅香光代らを中心に長期に渡り台本を手がけていく。1940年(昭和15年)、妻:たまと結婚。
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