大統領選挙不出馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 10:02 UTC 版)
「リンドン・ジョンソン」の記事における「大統領選挙不出馬」の解説
このような厳しい状況の中で、ジョンソンは1968年3月31日夜にテレビ演説を行い、これまでのベトナム政策を劇的に転換し、北ベトナムへの北爆を部分的に停止(完全停止は10月)して無条件で北ベトナムとの対話を呼びかけた。 そして演説の最後には、草稿には無かった、次期アメリカ合衆国大統領選挙に於いて「民主党大統領候補としての再指名を求めない」ことを発表した。 アメリカの若者たちが遥か彼方の戦場にいて、アメリカの未来が国内で試練に曝されている中、そして、私たちと世界が安定した平和を毎日願う中、私は自分の時間の1時間、1日たりとも、個人的・党派的な目的追求のために、そして、皆さんの国の大統領という職に伴う多大な義務以外の如何なるものにも、捧げるべきでないと信じます。従って、私は大統領として再選されるための、私が属する党による指名を求めることも、受諾することもありません。 — リンドン・ジョンソン、1968年3月31日 これはベトナム戦争に対する国内世論の分裂拡大をその理由に挙げて、これから任期が終わるまで国内世論の融和をはかることに大統領の職務を全うするため、大統領選挙への出馬を断念することを明らかにするものであった。自己のベトナム介入政策が挫折したことをこの時初めてジョンソンは認めたのである。 後にマクナマラが密かにまとめた「国防総省秘密報告」では、この決断が兵力をこれ以上増強しても軍事的勝利を得られないという補佐官たちの確信と、戦争政策をめぐって分裂した国民の団結を回復しなければならないという自己の深刻な決意から生まれたものだと記述されている。 この後、5月からパリで北ベトナムとの交渉が始まったが、任期が終わるまで実質何ら成果が上がることはなかった。そして民主党はロバート・ケネディがカリフォルニア州予備選で勝利して、党大統領候補指名に王手をかけた直後に”暗殺”されたため(ロバート・ケネディ暗殺事件)、結局、副大統領のハンフリーを指名した。 ハンフリーは予備選挙に立候補していなかったため、70年代以後の民主党予備選挙では、指名されるためには立候補が必須条件となった。大統領選挙では共和党のニクソンが得票率43.4%、獲得選挙人301、ハンフリーが得票率42.7%、獲得選挙人191で敗北した。得票率は僅差だったが、ベトナム戦争を泥沼化させたジョンソンへのアメリカ人の批判と反発は強かったのである。
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