大学院進学とマット界復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 08:13 UTC 版)
「石澤常光」の記事における「大学院進学とマット界復帰」の解説
2007年12月、IGF有明コロシアム大会にて、直前に欠場となったブッカー・Tの代役として、カート・アングルを相手に、カシンとしての復帰を果たした。プロレスの試合としては実に2年2か月ぶりだが、全くブランクを感じさせないファイトを見せる。この試合について、田中秀和(現:田中ケロ)は自身のブログで、カシンへのオファーがあったのは試合前日だったとする裏話を明かしている。しかし、東京スポーツの「INOKI日記」による記述では、数日前からオファーはしていた様子である。 2008年1月、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程1年制コースに合格。現役レスラーでの大学院進学はジャンボ鶴田以来2人目。カシンは「ビッグ・サカやドラゴン、ムトチャン、サイモン・ケリーら偉大な経営者に倣って、プロレス界のためにスポーツマネジメントを学びたい」と東京スポーツ紙上で抱負を語った。早大では平田竹男教授の指導を受けた。 2009年10月、DREAM.12で約1年2ヶ月ぶりとなるマット界復帰(総合格闘技、石澤としては約2年10ヶ月ぶり)を果たす。復帰にさいして東スポの取材に「DREAMの渡辺に足元見られた……いや、騙された」と発言。船木誠勝との対戦を臭わされてオファーを受けたが、船木戦の話はなしのつぶてとなったと主張。対戦相手に決定した新日本プロレス時代の後輩柴田勝頼に対しても「今や何のために柴田と戦うのかも分からん」、「柴田はレフェリーとして親父(柴田勝久)を連れて来い」などと発言。さらに、負けた場合のペナルティーとして青義軍入りを条件として一方的に上げ、「同期(柴田にとっての井上亘、カシンにとっての永田)が待っているぞ。その条件なら、俺も死ぬ気で頑張れる」とやり玉に上げた。「そもそも船木はムトちゃん(武藤)のリングが死に場所でいいのか? とにかく悪いのはすべて永田裕志だ」などと、支離滅裂な相変わらずのカシン節を披露するが、試合はパウンドでTKO負けを喫した。 2011年3月、東日本大震災以降、音信不通となり安否を心配されたが、後に関係者と連絡がつき無事を確認。東スポの取材に「東北の善良な人々が多数亡くなってしまった、悲しい……。これは東北のみならず日本の危機、残りの人生は東北の再建にささげたい」と珍しく神妙に哀悼の意を表した。しかし、カシンのためにもニュージャパン・カップに優勝すると自身のブログで宣言していた永田に対しては、「それにしても許せないのは人の名を出して紙面に出ようとする永田裕志だ、まかり間違ってニュージャパン・カップに優勝したら賞金全額を被災地に寄付しろ」と相変わらずのカシン節で答えた。 2013年よりIGF道場の指導委託者に就任。 2014年、全日本プロレス「チャンピオン・カーニバル2014」にエントリー。全日退団以来10年ぶりの古巣参戦となる。チャンカーは初参加。 2016年4月、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)講師に就任、「プロレスエクササイズ」と題した講義を週1回担当している。 2017年、大日本プロレスや大仁田興行などに参戦。8月には自伝『フツーのプロレスラーだった僕がKOで大学非常勤講師になるまで』を出版。 2019年1月下旬より、サイモン・ケリー猪木の紹介でWWEの下部団体・NXTのゲストトレーナーとして新人育成を担当。8月、WWEから正式にコーチに就任したことが発表された。コーチ就任は日本人初となる。 しかし、翌2020年にはアメリカ国内で新型コロナウイルスの流行が深刻化。観客を集める興行ができなくなったWWEは、同年4月15日、多くのレスラーとともにケンドー・カシンを解雇した。 2020年6月1日より、プロレスリングNOAHに登場。
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大学院進学とマット界復帰
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「ケンドー・カシン」の記事における「大学院進学とマット界復帰」の解説
2007年12月、IGF有明コロシアム大会にて、直前に欠場となったブッカー・Tの代役として、カート・アングルを相手に、カシンとしての復帰を果たした。プロレスの試合としては実に2年2か月ぶりだが、全くブランクを感じさせないファイトを見せる。この試合について、田中秀和(現:田中ケロ)は自身のブログで、カシンへのオファーがあったのは試合前日だったとする裏話を明かしている。しかし、東京スポーツの「INOKI日記」による記述では、数日前からオファーはしていた様子である。 2008年1月、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程1年制コースに合格。現役レスラーでの大学院進学はジャンボ鶴田以来2人目。カシンは「ビッグ・サカやドラゴン、ムトチャン、サイモン・ケリーら偉大な経営者に倣って、プロレス界のためにスポーツマネジメントを学びたい」と東京スポーツ紙上で抱負を語った。早大では平田竹男教授の指導を受けた。 2009年10月、DREAM.12で約1年2ヶ月ぶりとなるマット界復帰(総合格闘技、石澤としては約2年10ヶ月ぶり)を果たす。復帰にさいして東スポの取材に「DREAMの渡辺に足元見られた……いや、騙された」と発言。船木誠勝との対戦を臭わされてオファーを受けたが、船木戦の話はなしのつぶてとなったと主張。対戦相手に決定した新日本プロレス時代の後輩柴田勝頼に対しても「今や何のために柴田と戦うのかも分からん」、「柴田はレフェリーとして親父(柴田勝久)を連れて来い」などと発言。さらに、負けた場合のペナルティーとして青義軍入りを条件として一方的に上げ、「同期(柴田にとっての井上亘、カシンにとっての永田)が待っているぞ。その条件なら、俺も死ぬ気で頑張れる」とやり玉に上げた。「そもそも船木はムトちゃん(武藤)のリングが死に場所でいいのか? とにかく悪いのはすべて永田裕志だ」などと、支離滅裂な相変わらずのカシン節を披露するが、試合はパウンドでTKO負けを喫した。 2011年3月、東日本大震災以降、音信不通となり安否を心配されたが、後に関係者と連絡がつき無事を確認。東スポの取材に「東北の善良な人々が多数亡くなってしまった、悲しい……。これは東北のみならず日本の危機、残りの人生は東北の再建にささげたい」と珍しく神妙に哀悼の意を表した。しかし、カシンのためにもニュージャパン・カップに優勝すると自身のブログで宣言していた永田に対しては、「それにしても許せないのは人の名を出して紙面に出ようとする永田裕志だ、まかり間違ってニュージャパン・カップに優勝したら賞金全額を被災地に寄付しろ」と相変わらずのカシン節で答えた。 2013年よりIGF道場の指導委託者に就任。 2014年、全日本プロレス「チャンピオン・カーニバル2014」に、全日本プロレスに10年ぶりに参戦。結果は勝ち点4(Aブロック6人中4位)だった。
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