墓所と記念碑・顕彰物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:12 UTC 版)
飯盛山に白虎隊士の墓所がある。元々は自刃した16人の合葬墓で、23回忌の1890年(明治23年)、出陣した隊士37人のうち戦死を含む19人全員を自刃として扱い、一人ずつの銘々碑を建立した。会津歴史研究会会長の井上昌威は、白虎隊を忠君の鑑として顕彰することが明治の国民教育に合致していたためと推測する。 飯盛山には銘々碑のほか、戊辰戦争時に自刃した武家女性や討ち死にした婦女子約200名の霊を慰める石碑「会津藩殉難烈婦碑」がある。墓域の整備に際しては根津嘉一郎の尽力があった。この記念碑の建立に際し建設会が組織され、高松宮宣仁親王が総裁、近衛文麿が会長、田中義一が名誉会長、徳川頼貞、大倉喜七郎が理事に就任し、地元では当時の若松市長で会津弔霊義会理事長でもあった松江豊寿等が活動した。 また、1935年に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフが飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑や、1928年にイタリアの最高指導者ベニート・ムッソリーニが寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑がある。なおムッソリーニが記念碑を寄贈するに至ったのは、下位春吉という人物が当時の若松市(現・会津若松市)の市長に対して「ムッソリーニは白虎隊の事績に感激し、記念碑を送ることを計画している」と述べたことがきっかけとなっている。とはいえ実際にはそのような計画は存在しておらず、下位による創作話であった。しかしこの話題が新聞に掲載され、幣原喜重郎や元隊員でもある山川健次郎ら名士からの賛助も与えられたため、実際に記念碑を建てる必要が生じた。そこで外務省からムッソリーニへ打診を行い、建立に至ったという経緯が存在している。イタリアとドイツの記念碑については、第二次世界大戦後に日本を占領した米軍当局からの命令で碑文が削除され、ドイツの記念碑には破壊命令も下されたが地元民が保管して破壊は免れた。ドイツの記念碑は1953年に再設置され、1955年に当初のものとは異なる碑文が刻まれた。 北海道久遠郡せたな町に隊士の有賀織之助、永瀬雄次の従兄弟である丹羽五郎が開拓した丹羽(村)があり、そこの玉川神社には「白虎隊遥拝所」がある。 山口県萩市唐樋町の火除け地蔵堂に、額入りの石版画『白虎隊自刃図』がある。戦火に包まれた若松城下を望む少年たちが描かれているが、いつ誰が描いたものかは不明である。戊辰戦争終結10年以内に描かれたという由来文があるが、山と城の位置関係が間違っており従軍した者が描いたにしてはおかしいとの指摘を受けている。なお萩市は、新政府軍の中核だった長州藩の城下である。 観光施設として復元されている会津藩校「日新館」は、白虎隊士を輩出した学校として、その歴史を現代に伝えている。また会津若松出身の弁護士・早川喜代次は1956年、私財を投じて「白虎隊記念館」を飯盛山に建てた。
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