墓所と子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 02:26 UTC 版)
三男(次男とも)の太郎左衛門安勝は幼名を喜三郎と名乗り、前述の掛川城攻めなどに父や兄と従軍し、大敗した三方ヶ原の戦いでは歩行困難となるほどの重傷を負った。以降も姉川の合戦や長篠の戦い、小牧長久手の戦いなどに参戦。天正18年(1590年)に徳川氏が関東入りした際に、武蔵国入間郡狭山に450石の領地を得た。同地には田中稲荷神社、峯愛宕神社など、安勝創建の寺社が存続しており、建物には小笠原家の家紋が刻まれている。寛永4年(1627年)78歳頃、隠居。寛永18年(1641年)2月3日に92歳で死去。 子孫は1千1百余石の大番組などを勤める旗本として存続した。文禄3年(1594年)、父の安元の墓を領内に移し、天岑寺を開基した。同寺は往時には七堂伽藍が揃っていたとも伝わるが、何度かの火事で焼けている。惣門は安勝の当時のものである。安勝以降の子孫の墓石が並ぶ。これらは安元と安勝以外の墓石が誰のものであるかは長く不明であったが、平成16年頃、狭山の郷土史学のグループ「狭山楽史会」により解明され、平成18年に狭山市の文化財に指定された。 江戸時代を通し存続し、領地替えは無かった。江戸幕府終焉時の当主は徳川将軍家の静岡転封に伴い静岡に移り、他の旧幕臣と共に牧之原台地の開墾を行った。のち東京に移住した。子孫は昭和10年代に女子のみとなり廃家届を出し、受理され、断絶した。
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