境村の歴史とは? わかりやすく解説

境村の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 08:39 UTC 版)

境 (武蔵野市)」の記事における「境村の歴史」の解説

(以下の文章断りのない限り全て武蔵野史」(藤原著/武蔵野市役所版)より抜粋して記載している) 境村玉川上水四ツ屋御上)を隔てて関前村西南にある。その東半は古来の境本田で、西半は享保年間開墾境新田である。 境本田という名は、正保武蔵国圖(武蔵国図)および田園簿にはまだ記載されていない。それでもここも吉祥寺などと同じく正保以後新開地と見える。 この道路人家配置は、吉祥寺以下の々とは全然異なり、討劃的開墾地ではない。保谷村百姓下田右衛門新墾だといわれている(新編武蔵風土記稿)。 境には鎭守神が多い。このことから三つの地域分かれて出来、やがて一つまとまった考えられる。即ち境村が三區(三区)に分かれて開墾されたのであろう(一) 鎭守杵築神社鎮座するいわゆる本村 (二) 関前村から玉川上水渡ってこのに入る保谷道のつきあたりの一区分高橋沖五郎家の天王社から南、中央線北側地域 (三) 第六天社西神社(今は杵築社に合祀されている)のある地域檜原関係地区) がこれで、各地区にそれぞれの鎭守のあることが自ら地区明らかにする中心神社にあり、村人神社設けてその精神的團結団結)を強くした。 人の集団をなして住むところ、必ず神社奉祀されることは日本人の上古からの風習である。この三つ地区のうち、境本村最初に次に保谷関係地区、遅れて檜原関係地区が開発されのである。 境本村杵築社の北一許りの處にある稲荷社棟札によれば慶安年中(1648-1615年)松平出羽守武蔵野の内に百二十四方御用屋敷持っていた。そして天下泰平御用屋敷繁栄との為に大社様と稲荷様とを祀ったその後三十余年貞享年間に、この辺上地となって徳川氏直領となった当時この御屋敷預かっていたのは松平出羽守家来、境本絺馬太夫(キョウモトチマタイウ)で、屋敷内にその隠居屋を造っていた。 境本は上地となった武蔵野十二町四方居残って自ら長百姓となって開発したいと願出て許された。ときの関東郡代伊奈半左衛門であった。かくて境本は十二町四方中の隠居屋のあったところに彼の屋敷構えた。その広さ三十四方であったまた、境本御屋敷内大社様と稲荷社とを奉祀することを許され社屋が相當腐朽していたから両社建立したその後安永年間(1772-1780年)大社様に攝社二社を祭ったその後慶應元年1865年9月に境本絺馬太夫末孫右衛門は、多摩郡長淵大工棟梁常吉をして社殿修しめた。祖先が奉斎して以来4度目建立をした。なお、大社様の境内六段畝歩稲荷社畝歩貞享中検地されて除地となったといわれている。 この棟札のいうに、境本村玉川上水企画されることから直ち注意惹かれた。それは深大寺にも近く、その参詣道大師道にも沿い、また府中から吉祥寺経て荻窪天沼抜け古道にも沿っていたからである。かくてこの地は松平出羽守分與され、松平氏景勝地点選んで御用屋敷設けた。その御用屋敷一隅今日杵築神社社地であった実際この地は南に窪地控え高地になっている。現在窪地は1メートルそこそこ深さしかないが、三百五六十年前窪地は今の数倍の深さ持っていたと思われる。したがって社地高台をなし、その辺りからは湧き水もあり御用屋敷にもなり境本が隠居宅を構えたのである

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