境村の歴史
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(以下の文章は断りのない限り、全て「武蔵野史」(藤原音松著/武蔵野市役所版)より抜粋して記載している) 境村は玉川上水(四ツ屋御上水)を隔てて関前村の西南にある。その東半は古来の境本田で、西半は享保年間開墾の境新田である。 境本田という名は、正保の武蔵国圖(武蔵国図)および田園簿にはまだ記載されていない。それでもここも吉祥寺などと同じく正保以後の新開地と見える。 この村の道路、人家の配置は、吉祥寺以下の村々とは全然異なり、討劃的開墾地ではない。保谷村の百姓下田三右衛門の新墾だといわれている(新編武蔵風土記稿)。 境には鎭守神が多い。このことから村が三つの地域に分かれて出来、やがて一つにまとまったと考えられる。即ち境村が三區(三区)に分かれて開墾されたのであろう。 (一) 鎭守杵築神社の鎮座するいわゆる本村 (二) 関前村から玉川上水を渡ってこの村に入る保谷道のつきあたりの一区分、高橋沖五郎家の天王社から南、中央線の北側地域 (三) 第六天社(西神社(今は杵築社に合祀されている)のある地域(檜原関係地区) がこれで、各地区にそれぞれの鎭守のあることが自ら地区を明らかにする。 村の中心は神社にあり、村人は神社を設けてその精神的團結(団結)を強くした。 人の集団をなして住むところ、必ず神社が奉祀されることは日本人の上古からの風習である。この三つの地区のうち、境本村が最初に、次に保谷関係地区、遅れて檜原関係地区が開発されたのである。 境本村杵築社の北一町許りの處にある稲荷社の棟札によれば、慶安年中(1648-1615年)松平出羽守は武蔵野の内に百二十町四方の御用屋敷を持っていた。そして天下泰平と御用屋敷繁栄との為に大社様と稲荷様とを祀った。 その後三十余年貞享年間に、この辺は上地となって徳川氏の直領となった。当時この御屋敷を預かっていたのは松平出羽守の家来、境本絺馬太夫(キョウモトチマタイウ)で、屋敷内にその隠居屋を造っていた。 境本は上地となった武蔵野十二町四方に居残って自ら長百姓となって開発したいと願出て許された。ときの関東郡代は伊奈半左衛門であった。かくて境本は十二町四方中の隠居屋のあったところに彼の屋敷を構えた。その広さは三十間四方であった。また、境本御屋敷内の大社様と稲荷社とを奉祀することを許されて社屋が相當腐朽していたから両社を建立した。 その後、安永年間(1772-1780年)大社様に攝社二社を祭った。その後、慶應元年(1865年)9月に境本絺馬太夫末孫仲右衛門は、多摩郡長淵村の大工棟梁の常吉をして社殿を修しめた。祖先が奉斎して以来4度目の建立をした。なお、大社様の境内六段六畝歩と稲荷社二畝歩は貞享中検地されて除地となったといわれている。 この棟札のいうに、境本村は玉川上水が企画されることから直ちに注意を惹かれた。それは深大寺にも近く、その参詣道大師道にも沿い、また府中から吉祥寺を経て荻窪天沼に抜ける古道にも沿っていたからである。かくてこの地は松平出羽守に分與され、松平氏は景勝の地点を選んで御用屋敷を設けた。その御用屋敷の一隅は今日の杵築神社の社地であった。実際この地は南に窪地を控え、高地になっている。現在窪地は1メートルそこそこの深さしかないが、三百五六十年前の窪地は今の数倍の深さを持っていたと思われる。したがって社地は高台をなし、その辺りからは湧き水もあり御用屋敷にもなり境本が隠居宅を構えたのである。
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