土甘郷から鵠沼郷、そして鵠沼村へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 09:00 UTC 版)
「鵠沼」の記事における「土甘郷から鵠沼郷、そして鵠沼村へ」の解説
発祥は奈良時代、(烏森)皇大神宮を中心に高座郡土甘郷が置かれた頃である。平安時代末期には鎌倉景正により拓かれ、伊勢神宮に寄進された荘園大庭御厨(おおばのみくりや)の一部となり、鵠沼郷と呼ばれるようになった。 江戸時代には旗本布施家と大橋家(2代のみ)の領地と幕府領に分かれ、湘南海岸一帯に幕府の相州炮術調練場(鉄炮場)が開かれ、鵠沼村には「角打ち」という近距離射撃の訓練場が置かれた。東海道藤沢宿に隣接するため、助郷村でもあった。 江戸末期までは周辺地区と同様に農漁村であった。農業は畑作を中心とする自給的なもので、若干の水田も見られた。鉄道開通期には、特産品としてハマボウフウやショウロを駅頭で売る光景も見られたという。漁業はもっぱら地引き網で、イワシ漁が中心であった。これは干鰯(ほしか=魚肥)として販売された。このため海浜部の旧地名を「鰯干場(やしば)」と呼んだ。明治末期から大正の最盛期には網元も9軒を算えたが、現在は1統が残るのみである。 南東部の旧鉄炮場の広大な砂原は、1887年(明治20年)の鉄道東海道本線開通前後から海水浴場や日本で最初の計画別荘地として開発が始まった。1902年(明治35年)に江ノ電が開通し、沿線は別荘地として急速に発展する。 一方、旧来の農村部では従来の自給的農業から水はけの良い海岸平野の特性を生かした園芸農業への転換が見られた。特産物としてはモモとサツマイモが代表的である。北東部の石上には製糸業の工場も操業したが、養蚕は相模野台地ほどは盛んだったといえない。モモ栽培は花の時期に近郷近在から花見客が訪れるなど「湘南の桃源郷」と呼ばれるほどだったが、太平洋戦争が始まると奢侈品だということで伐採が命じられて姿を消した。現金収入を得たためか、鵠沼の鎮守である皇大神宮の例祭に9つの氏子集落が人形山車を巡行する風習が明治中期から始まり、今日まで続いている。神明宮の風流山車を神奈川県は「かながわの民俗芸能50選」に指定し、藤沢市は有形民俗文化財に指定している。
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