土木技師、鉄道建設者、家族
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「ウィリアム・マホーン」の記事における「土木技師、鉄道建設者、家族」の解説
マホーンは1848年からカロライン郡にあるラッパハノック専門学校の教師を務めたが、積極的に土木技術を活かす世界での職を求めた。ゴードンズビルとアレクサンドリアを結ぶ88マイル (140 km) のオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道の建設では幾らかの役割を果たした。新鉄道がうまくいったので、フレデリックスバーグとゴードンズビルとを結ぶ板道の建設に雇われた。 1853年、ノーフォークのフランシス・マロリーから新しいノーフォーク・ピーターズバーグ鉄道を建設する主任技師として雇われた。マホーンが工夫したサウスノーフォークとサフォークの間のグレート・ディズマル沼地を通す12マイル (19 km)の道床には、沼の表面下に道と直行するように置かれた木材基礎を採用した。マホーンの丸太を使った道路は150年後の今も使われており、大重量の石炭を運ぶ用途にも耐えている。またサフォークとピーターズバーグ間の有名な52マイル (83 km) 接円線の設計と建設にも関与した。これはカーブが全くなく、現在ノーフォーク・サザン鉄道の基幹線となっている。 1854年、ノーフォーク郡のチェサピーク湾に面する新しいリゾート地、オーシャン・ビュー・シティの通りや区画を調査し配置を決めた。19世紀後半の路面電車の出現で、そこにアミューズメントパークが開発され、隣接する海浜に沿って遊歩道が造られた。マホーンの都市計画の大半は21世紀になっても使われており、今はノーフォーク市の一部となったオーシャン・ビューは再開発されている。 1855年2月8日、マホーンは、ピーターズバーグ出身のオテリア・ボイナード・バトラー (1803-1855) と故人になっていたスミスフィールド出身のロバート・バトラー博士の娘、オテリア・バトラー (1835-1911) と結婚した。ロバート・バトラーは1846年からその死の1853年までバージニア州財務官を務めていた。 若いオテリアは教養のある淑女だったと言われている。彼女とマホーンはノーフォークに住み、南北戦争の前の時代の大半はそこで生活した。13人の子供が生まれたが成人したのは3人に過ぎなかった。2人の息子ウィリアム・ジュニアとロバート、および1人の娘、やはり同じ名前のオテリアだった。 1855年の夏に激発し、ノーフォークとポーツマスの人口のほぼ3分の1を死なせた黄熱病の流行の時は、イェルザレムから幾分離れた母の家にいてその影響から免れた。しかし、疫病の結果として、ノーフォーク地区の人口が減ったために金融債務の履行が難しくなり、ピーターズバーグに向けた新しい鉄道の工事は行き詰まった。マホーンとその助言者マロリーはそれにも拘わらず倹約に努めて計画の完遂に向けて進んだ。 巷間に伝わる話に拠れば、オテリアとマホーンは新しく完成した鉄道で旅し、オテリアが読んでいるウォルター・スコット卿の作品「アイバンホー」などから駅の名前を付けていったと言われる。スコットのスコットランドを舞台にした歴史小説からウィンザー、ウェイバリーやウェイクフィールドなどの地名を選んだ。サザンプトン郡の小さな町、アイバーにはスコットランドの一地方「マッキーバー」を選んだ。二人の意見が一致しない所ではディスプタンタという名前が創られたと言われている。ノーフォーク・ピーターズバーグ鉄道は1858年に完工し、マホーンはその少し後で鉄道運行会社の社長に指名された。 幾つかの記録に拠れば、1860年時点でマホーンは7人の奴隷を所有していた。全て黒人で3人の男性3人(13歳、4歳、2歳)と女性4人(45歳、24歳、11歳、1歳)であった。それにも拘わらず、南北戦争の間や後で、アフリカ系アメリカ人の兵士や当時は特異であった元奴隷に対して思いやりを示し、その公平な処遇と教育のために熱心に働いた。
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