国風文化と女性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
平安時代になると平仮名が現れる。漢字を「真名(まな)」とするのに対し和語表記を「仮名」と称し、その中でも音仮名(万葉仮名)を「男手(おとこで)」、平仮名を「女手(おんなで)」と呼ぶようになる。真名を使う漢詩や儒学などに対し、仮名を使う和歌や物語は一段低いものと見なされていたが、仮名は掛詞や縁語などの修辞法を生みだした。平安初期には有智子内親王の様に漢詩を読む女性は賞賛されたが、やがて紫式部のように漢籍、漢詩をたしなむ女性は非難の対象となっていく。しかし女性は仮名を巧みに使いこなし新しい文学を創り出していった。 前述のように、天皇や后妃の周辺には女房と呼ばれる侍女がいた。彼女らの役割は仕える主を盛り立てる事であり、また主家の栄華を喧伝する事であった。主家の栄達は自身の親族の出世に結びついていたのである。そのため女房は歌合で和歌を詠み、家集を編み、日記を綴り、物語を創作していく。それらにより女房は宮廷文化サロンの一翼を担ったが、一方で男女が対等ではない事への憤りも記している。それらは『蜻蛉日記』が「世に出回る物語の一端などを見れば世にありふれた虚言」と記すように、『伊勢物語』などの男性目線の物語を否定し、女性からみた結婚と人生の真実をつづる「わたしの物語」であった。『枕草子』には男性中心の身分社会への不満、『紫式部日記』には教養を隠さねばならない事への苦悩など、宮仕えする女性の苦しみを見て取ることができる。 10世紀の絵画は、物語絵、女絵、屏風絵などがあり、主に貴族社会が題材となり、男女が共有する文化だった。女絵は交換や贈り物に使われた小品画で、主に貴族の男女の恋愛を描いており、いくつかの型があったとされるが、現存していない。現存する物語絵の『源氏物語絵巻』は、女絵をもとに制作されたともいわれる。平安時代には描写の細かさに性別の区別はなかったが、のちの鎌倉時代に入ると、男性像の描写が細かくなり、女性の個人差は描かれなくなってゆく。
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