国家の形骸化、滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 02:25 UTC 版)
「ルーム・セルジューク朝」の記事における「国家の形骸化、滅亡」の解説
「ベイリク」も参照 クルチ・アルスラーンの政権では、イルハン朝の君主であるフレグとアバカの親子から信任を受けていたムイン・アッディーン・スライマーンが実権を有していた。1266年にスライマーンはイルハン朝の許可を得てクルチ・アルスラーンを殺害し、代わりに幼年のカイホスロー3世を即位させた。ルーム・セルジュークはイルハン朝に対して完全に臣従した状態にあり、イルハン朝からの過重な貢納の要求に対して国内では怨嗟の声が上がった。1276年にスライマーンら有力者がイルハン朝の宮廷に伺候して国内を留守にすると、マムルーク朝と結託した廷臣たちによるクーデターが発生する。 マムルーク朝のスルターン・バイバルスはアナトリア半島に遠征し、1277年4月15日にエルビスタン(英語版)でモンゴル軍に勝利する(エルビスタンの戦い(英語版))。4月23日にカイセリに入城したバイバルスは歓迎を受けるが、ルーム・セルジュークの領主たちがモンゴルの報復を恐れて決起しない様子を見て、エジプトに帰国した。 また、バイバルスのアナトリア遠征に呼応して、カラマン家(後のカラマン侯国(英語版)の原型)のシャムス・ウッディーン・ムハンマド・ベグ(英語版)が、カイカーウス2世の王子と称するスィヤーヴシュを擁して反乱を起こした。1277年5月15日に反乱軍はコンヤを占領し、スィヤーヴシュを君主、ムハンマド・ベグを宰相とした政権が成立するが、アバカがアナトリアに進軍した報告を聞くとムハンマド・ベグはコンヤを放棄し、スィヤーヴシュとムハンマド・ベグの政権は37日間という短期に終わる。翌1278年にルーム・セルジューク、モンゴル軍双方の攻撃を受けてスィヤーヴシュとムハンマド・ベグの両名は戦死した。 エルビスタンの戦いで2人の将校を失ったアバカの怒りは大きく、自ら軍を率いてのアナトリアへの懲罰を企てた。カイセリ、エルゼルム周辺の住民はモンゴル軍に殺害され、バイバルスに敗れて敗走するモンゴル兵を匿ったキリスト教徒であってもモンゴル軍の被害を受けた。在地のシャイフ(長老)の説得を受けてアバカは破壊と略奪を止めるよう軍隊に命じ、イスラム教徒の捕虜を釈放し、宮殿に帰還した後スライマーンを処刑した。 バイバルスの遠征はルーム・セルジュークを窮地から救うだけの成果は無く、イルハン朝の圧力がより増す結果に終わる。イルハン朝から宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーが派遣され、ルーム・セルジュークへの経済的な圧力がより強化された。1282年にカイホスロー3世はイルハン朝のハン・アフマドに廃されてエルズィンジャンに送られ、アフマドを討ってハンの地位に就いたアルグンからイルハン朝の王族コンクルタイ暗殺に関与した容疑をかけられて殺害された。カイカーウス2世の子マスウード2世とマスウード2世の兄(もしくは従兄弟)のカイクバード3世が領地を二分するが、2人のスルターンは権力を有していない状態にあった。 13世紀末になるとアナトリア半島の秩序は乱れ、領主は暴政を布き、官職の売買も行われるようになった。中央の支配力が衰えると、ウジと呼ばれる辺境地帯では居住するトゥルクマーンの反乱がしばしば発生する(ルーム・セルジューク朝#軍事も参照)。1288年に末期のルーム・セルジューク朝を支えた高官ファフル・アッディーン・アリーが没すると、官僚機構は機能を停止する。1307年までマスウード2世とカイクバード3世が短い間隔を置いて交互にスルターンの地位に就く状態が続き、1295年にマスウード2世は反乱への加担を疑われてガザン・ハンによって廃された時に、4人のルーム・セルジュークの高官が領内を分割して統治する状態になる。 14世紀に入ると、史料に書かれるルーム・セルジューク朝の内情は不明瞭になる。1308年にルーム・セルジュークのマスウード3世がカイセリで急死すると、男子の後継者が断絶する。1308年より後、アナトリアでセルジューク家の人間がスルターンに即位することは無く、ルーム・セルジューク朝は滅亡した。
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