国境越えの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 01:39 UTC 版)
詳細は各記事を参照 上越国境を超える道には主に清水峠ルート(群馬県利根郡みなかみ町 - 新潟県南魚沼市)と三国峠ルート(みなかみ町 - 新潟県南魚沼郡湯沢町)があり、上野国と越後国を最短で結ぶため、両者とも古来より利用されてきたが、急峻な地形に加え、夏の集中豪雨、冬の豪雪、雪崩など土砂災害が多発する難所であった。清水峠ルートには上杉謙信を始めとする越後の戦国大名、上杉氏の行軍の際に使用された十五里尾根があり、謙信尾根とも呼ばれた。江戸時代には、三国峠ルートである三国街道が整備され、清水峠ルートは長年にわたって使われなくなった。 明治時代に入り清水峠ルートの距離の短さが注目され、1885年(明治18年)には馬車が通行可能な緩勾配の新道が整備された。この新道は国道の指定を受けたが、その年のうちに豪雨や豪雪により馬車の通行が不能となった。特に荒廃のひどかった新潟県側の区間にはその後、居坪坂と呼ばれる徒歩道が整備されたため、取って代わられ使われなくなった区間は放棄され、現在では道路の痕跡すらほとんど残っていない。一方、群馬県側は徒歩のみではあるが現役の道である。なお、1970年(昭和45年)に群馬県前橋市から新潟県柏崎市に至る国道291号が指定された際に、その放棄された区間がルートに組み込まれたが、依然として現在まで廃道同然となっている。 昭和時代に入ると、1931年(昭和6年)には清水峠付近(直下ではなく、少し離れた谷川岳付近)に鉄道(上越線)の清水トンネル(9,702m、単線)が開通し、川端康成が越後湯沢を訪れるようになり、その経験をもとに『雪国』が執筆された。その冒頭の「国境の長いトンネル」とは、開通したばかりの清水トンネルだとされる。 1957年(昭和32年)には三国峠の直下に車道(国道17号)の三国トンネル(1,218m)が開通し、初めて自動車で上越国境を越えられるようになった。その後2009年11月現在まで上越国境を越える唯一の一般道となっている。 その後、清水トンネル付近には1967年(昭和42年)に上越線の複線化のために新清水トンネル(13,490m、単線)が開通し、こちらが下り(新潟方面)専用に、清水トンネル側は上り(東京方面)専用となった。1982年(昭和57年)には上越新幹線の大清水トンネル(22,221m、竣工当時世界一、複線)が開通した。そして1985年(昭和60年)には関越自動車道の関越トンネル(上り線11,055m、道路用としては日本一)が開通したが、このトンネルは危険物積載車両は通行禁止であるため、そのような車両は三国トンネルを通ることになる。 現在では三国トンネルは開通から50年以上経過しており、老朽化してきたため、新三国トンネルの建設が計画されている。
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