国共内戦、晩年
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戦後、王陵基は第7綏靖区司令官に昇進し、共産党への対策・粛清に尽力した。1946年(民国35年)3月、江西省政府主席に任命され、1948年(民国37年)4月に四川省に戻り省政府主席となった。1949年(民国38年)夏、中国人民解放軍迎撃のため四川反共救国軍総司令に任ぜられたが、年末には敗退して雅安に追い込まれる。最後は直属部隊に蜂起されてしまい、王は変装して逃亡を図ったが、途中で人民解放軍に捕縛されてしまった。 中華人民共和国での王陵基は10年以上も収監され続け、1964年12月28日の第5回戦犯特赦において、ようやく釈放された。釈放時点の王は、すでに老齢の上に重い高血圧・心臓病を患っており、入院を余儀なくされている。1967年3月17日、北京市で病没。享年85(満83歳)。
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国共内戦、晩年
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日中戦争終結後の衛立煌は、国共内戦開始に反対し、共産党との問題は政治交渉により解決すべきと主張していた。蔣介石や陳誠がこれを容れずに内戦を推進するのを見ると、衛は1946年(民国35年)11月から外遊に赴き、翌1947年(民国36年)秋まで帰国しなかった。その間に内戦は、やはり衛の危惧どおり、国民党不利の形勢で推移していった。 1948年(民国37年)1月、蔣介石は陳誠の後任として衛立煌を東北剿匪総司令に任命し、中国人民解放軍に対処させた。しかし蔣は衛を信任せず、その指揮権を制限し、不利な情勢にもかかわらず無謀な攻勢を強行させるなどして、遼瀋戦役での大敗を招いてしまう。同年11月、責任逃れを図る蔣により衛は総司令を罷免されてしまった。1949年(民国38年)、衛は中国共産党から戦犯の1人として指名されている。国民党が敗北した後は、香港に寓居した。 戦犯と指名されていたにもかかわらず、衛立煌は中華人民共和国建国に際して、早くも祝電を打つなどしていた。そして1955年(民国44年)3月、衛は自ら北京入りしている。中華人民共和国も衛を歓迎し、戦犯としての罪を問おうとはしなかった。以後、衛は中国人民政治協商会議全国委員会常務委員、国防委員会副主席、中国国民党革命委員会(民革)中央常務委員などを歴任した。1960年1月17日、北京市で死去。享年64(満62歳)。
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国共内戦、晩年
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日中戦争終結後、孫渡率いる第1集団軍は東北へ動員され、錦州に駐屯した。孫渡は第6兵団司令兼東北剿匪総司令として、国共内戦で中国人民解放軍と戦うことになる。 ところが、1945年10月に竜雲が蔣介石により武力で雲南省政府主席から罷免されたこと、さらに国民政府中央による地方軍差別待遇などもあって、雲南軍の士気は低調であった。そのため孫渡は、指揮下にあった高級士官や軍の相次ぐ逃亡・離反を防ぐことができなくなった。1948年(民国37年)2月には、孫は軍指揮権を剥奪され、熱河省政府主席に移されてしまう。この時期にはすでに人民解放軍が東北で優勢な状況にあり、熱河省政府は事実上ただの名義のみの存在でしかなく、何の実権も孫にはなかった。 1949年(民国38年)12月初頭に、孫渡は西南軍政長官公署副長官に任命され、雲南に戻った。ところが同月9日には雲南省政府主席盧漢が中国共産党への起義を宣言したため、孫は逃亡して昆明郊外に隠れ住む。しかし1952年、孫は当局により逮捕されてしまった。1959年、孫渡は大赦を受けて釈放され、以後は中国人民政治協商会議雲南省委員会の第2期・第3期委員をつとめている。 1967年4月、昆明にて病没。享年70(満69歳)。
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