国共内戦、台湾での活動
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1946年(民国35年)6月、郭寄嶠は国防部参謀次長に起用された。しかし同年10月、谷正倫の後任として甘粛省政府主席兼同省保安司令に任ぜられ、さらに西北行営副主任(行営所在地はウルムチ)も兼ねている。1948年(民国37年)9月には西北軍政長官公署副長官、さらに国民党甘粛省党部主任委員も兼ねている。郭は甘粛省のため各種政策に取り組み、馬家軍の指導者を始めとする少数民族にも宥和政策で臨んだ。そのため初期は省情の安定をもたらしたが、国共内戦の戦況悪化やそれに伴う財源の枯渇のため、次第にその統治は動揺していく。 1949年(民国38年)5月、郭寄嶠は西北軍政長官公署主任代理となったが、この頃には甘粛省省民や学生の国民政府に対する不満・反感を抑えきれなくなり、同年7月に省政府主席を辞任に追い込まれた。まもなく、郭とその家族は台湾に逃れている。台湾では当初東南軍政長官公署副長官に任ぜられたが、1950年(民国39年)に副参謀総長に起用されている。翌1951年(民国40年)3月、国防部長に抜擢され、さらに陸軍二級上将位を授与された。1952年(民国41年)、美援運用委員会委員も兼任し、同年10月、国民党第7期中央執行委員に選出された。 1954年(民国43年)5月、郭寄嶠は国防部長を退任し、翌月に総統府国策顧問に任ぜられている。1957年(民国46年)10月、国民党第8期中央評議委員に選出され、以後第15期まで連続再選された。1970年(民国59年)に蒙蔵委員会委員長に起用され、1972年(民国61年)5月まで在任している。1998年(民国87年)7月26日、台北市にて病没。享年97(満95歳)。
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