国共内戦、台湾での失脚
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1945年(民国34年)7月、孫立人率いる新編第1軍は凱旋し、広西省南寧に駐留した。その後、孫立人は欧州へ軍事視察に赴き、帰国前に日本は降伏、その装備を接収する形で新編第1軍はさらに拡充され、国民党軍五大主力(中国語版)の一角となっている。翌1946年(民国35年)3月、東北民主連軍討伐のため孫立人と新編第1軍は東北へ派遣され四平攻防戦(英語版)を指揮した。当初は孫立人が優位に戦いを進め、5月には長春を占領している。しかし、6月以降の全面的な国共内戦勃発後は次第に東北民主連軍の反撃に苦しみ、敗北を重ねた。このため、1947年(民国36年)4月に孫立人は東北保安司令部副司令長官に異動させられ、8月には陸軍総司令代理兼陸軍訓練司令となる。外面的には昇進ではあったが、自身が率いていた新編第1軍の指揮権を失うなどしている。 その後の孫立人は、台湾防衛のため新兵の訓練に従事し、1949年(民国38年)8月、東南軍政長官公署副長官兼台湾防衛司令に任ぜられた。1950年(民国39年)3月、蔣介石が中華民国総統に復帰すると、孫立人は陸軍総司令兼保安総司令に起用されている。1952年(民国41年)10月、中国国民党第7期中央委員に選出され、さらに台湾衛戍司令も兼ねた。しかし、孫立人は蔣介石の専制的統治には不満をかねがね抱いていた。さらにアメリカが派遣してきた軍事顧問団とも積極的に独自の交流をなしている有様を見て、蔣介石・蔣経国父子は孫立人への不信感を募らせていく。 1954年(民国43年)6月、孫立人は陸軍総司令を突然罷免され、総統府参軍長に異動させられた。翌1955年(民国44年)6月、孫立人配下の郭廷亮がクーデターを目論んでいたとの嫌疑で、孫立人も監視下に置かれてしまう。同年8月、陳誠ら9人で構成される調査委員会が組織され、10月末には同委員会の報告に基づき孫立人は参軍長から罷免、軟禁処分を言い渡された(「孫立人事件」)。孫立人がようやく軟禁を解かれたのは、32年余り経過した1988年(民国77年)3月22日のことである。 1990年(民国79年)11月19日、台中市にて病没。享年92(満91歳)。
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