哲学への関心
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「ミハイル・バクーニン」の記事における「哲学への関心」の解説
モスクワでは元学生のグループと親しくなり、観念論哲学を体系的に学び、E.H.カーが後年「ロシアの思想に広大で肥沃なドイツ形而上学の地平を開いてみせた勇敢な先駆者」と評した詩人、ニコライ・スタンケーヴィチを中心とした人々とも交わった。彼らは当初カントの哲学をおもに追究したが、やがてシェリング、フィヒテ、ヘーゲルとその対象を移していった。1835年秋頃には故郷のプリャムヒノで自身の哲学サークルを作っており、それは若者たちの恋の舞台ともなった。例えばベリンスキーはバクーニンの姉妹の一人と恋に落ちている。1836年初頭、バクーニンは再びモスクワへ戻り、フィヒテの『学者の使命についての数講』と『浄福なる生への指教』の翻訳を出版した。これはバクーニン自身がもっとも好んだ著作だった。また、スタンケーヴィチと共にゲーテやシラー、E.T.A.ホフマンの著作にも親しんだ。 この当時のバクーニンは、宗教的でありつつ脱教会的色彩の強い内在論を展開した。バクーニンはヘーゲルの影響を受け、その著作のロシア語訳を初めて刊行した。スラヴ主義者のコンスタンチン・アクサーコフ、ピョートル・チャーダーエフ、社会主義者のアレクサンドル・ゲルツェン、ニコライ・オガリョフに出会い、この時期からバクーニンの思想は汎スラヴ主義的色彩を濃くしてゆく。やがて父親を説得して1840年にベルリンへ赴く。当初、大学教授になることを目的としていた(本人や友人らが「真実の教導者」であると考えていた)のだが、ほどなくいわゆるヘーゲル左派の急進的な学生と接触し、ベルリンの社会主義運動に加わることになる。1842年の小論文『ドイツにおける反動』では否定というものが果たす革命的役割を支持しており、「破壊への情熱は、創造の情熱である」という一節を記している。 ベルリンで三学期を過ごしたのち、バクーニンはドレスデンへ向かい、そこでアーノルド・ルーゲと親しくなった。この頃シュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』に触れ、社会主義への感化を深めた。バクーニンは学究的生活に興味を失って革命運動に没頭するようになり、ロシア政府がその急進的思想を警戒して帰国を命じるも、これを拒否したため財産を没収された。こののちゲオルク・ヘルヴェークとともにスイスのチューリヒへ向かった。
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