合併とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:22 UTC 版)
天竜川水力電気では浜松送電に続く第2期工事として、1923年(大正12年)ごろの完成を目指し天竜川本流の滝原発電所(出力1万2,300キロワット)に着手した。しかし完成を前に天竜川水力電気は古河財閥を離れ関西電気(旧名古屋電灯)に合併されることとなった。 旧名古屋電灯は福澤桃介が社長を務めた愛知県名古屋市の電力会社である。同社は1920年から周辺事業者の統合を開始し、1年半で計6社を合併。さらに1921年10月には奈良県の関西水力電気に形式上吸収合併され(福澤が社長を続投するなど実質的な存続会社は名古屋電灯側)、関西電気となった。関西電気成立後も周辺事業者の統合は継続され、1922年(大正11年)までに計9社の電力会社が吸収されている。そのうちの1社が天竜川水力電気であり、合併契約は関西水力電気と名古屋電灯の合併が完了する前の1921年9月1日に、関西水力電気との間に締結された。合併条件は、存続会社の関西水力電気が300万円を増資し、それに伴う新株(1株額面50円払込済み)を解散する天竜川水力電気の株主に対し持株10株(1株20円払込)につき3株の割合で交付する、というものであった。 合併契約は、関西水力電気側では関西電気への社名変更と同時、1921年10月18日の株主総会で承認された。天竜川水力電気でも同日株主総会を開き合併を承認している。合併契約成立に伴い、設計変更のため滝原発電所の隧道工事が10月30日限りで中断された。同年12月28日に逓信省から合併認可が下り、翌1922年2月1日に関西電気で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了、同日天竜川水力電気は解散した。合併4か月後の1922年6月、関西電気は東邦電力へと改称している。 天竜川水力電気から滝原地点における天竜川水利権を引き継いだ東邦電力では、その後別途王子製紙から譲り受けた旧中部工場に関する水利権とあわせて開発計画を再検討した。その結果、天竜川を堰き止める2つのダムを築造し、「山室」(豊根村)と「中部」(佐久間村)の2地点に6万キロワットおよび7万8千キロワットの出力を持つ2つの調整池式発電所を建設する計画をまとめた。東邦電力では飛騨川開発の完了を待って1941年(昭和16年)以降に着工する予定であったが、同社の手では開発に至らず、太平洋戦争後になって地点を1か所に統合して開発実施に至った。こうして完成したのが出力35万キロワットに及ぶ電源開発佐久間発電所(佐久間ダム)である。佐久間ダム建設に際し、かつて天竜川水力電気が運転した豊根発電所はダム湖に水没する位置のため上方へ移設された。しかしこれに続く新豊根ダム建設により取水地点が水没したため1972年(昭和47年)に廃止されており、現存しない。
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