2大手法人の合併とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:14 UTC 版)
「EY新日本有限責任監査法人」の記事における「2大手法人の合併とその後」の解説
海外の会計事務所はしばらく六大会計事務所(Big6)体制で落ち着いていたが、1997年(平成9年)9月になり、そのうちのプライス・ウォーターハウスとクーパース・アンド・ライブランドの合併計画が報じられた。これに触発される形で、翌10月20日には提携先であったEYとKPMGの合併計画が急浮上、正式決定までなされた。 前者については国内でも中央監査法人と青山監査法人の合併検討が直ちに始められた。また結果として米国・欧州での合併認可を取りつけ1998年(平成10年)に2つの会計事務所は合併、プライスウォーターハウスクーパース(PwC)となる。これに続き国内でも、一度は延期されたものの2000年(平成12年)に中央と青山は合併を決め中央青山監査法人となった。一方後者について、太田昭和監査法人は昭和監査法人からの流れでKPMGとも提携はしていたが、KPMGの日本におけるメインの提携先はセンチュリー監査法人である。ここに太田昭和とセンチュリーの合併交渉が開始され、期日を1998年(平成10年)7月1日に据えたものの、EYとKPMGの合併は同年初頭に早くも破断へ至った。しかしながら国内での合併交渉は継続され、2000年(平成12年)に中央青山監査法人の成立と同タイミングで太田昭和とセンチュリーは合併、監査法人太田昭和センチュリーが成立するのである。 両者の合併契約締結がスムーズに進行した背景として、国内において大手金融機関をはじめクライアント同士の大型合併が当時相次いでいたこと、特に富士銀行(太田昭和が担当)・第一勧業銀行(センチュリーが担当)・日本興業銀行(中央が担当)の3行合併により監査人が絞られ、各法人にとって重大な影響をもたらすことが懸念されていたことがあった。新たに設立されるメガバンク(現・みずほフィナンシャルグループ)を巡り3法人間での駆け引きが行われ、太田昭和とセンチュリーはメガバンク繋ぎ止めのために兼ねてより進められていた合併交渉が有利に働くとみて、グローバルファームの合併破談に反して積極的な動きを見せた。これが功を奏しメガバンクは太田昭和とセンチュリーの合併後の監査法人に残ることとなった。 この合併によってKPMGの提携先は監査法人太田昭和センチュリー(2001年より新日本監査法人)のみとなったが、法人の主軸は太田昭和の側にあり、メイン提携先はEYであったため、海外関連業務等もEYが主導となり、KPMGは日本での業務拡大に支障をきたすこととなった。一方、同時期に発生したエンロン事件により同社を担当していたアーサー・アンダーセンが解散に追い込まれ、提携していた朝日監査法人も新たな提携先を探す必要性に迫られることとなった。ここに両者の利害関係は一致し、またアンダーセンがKPMGと監査部門の身売り交渉を開始したこともあり、朝日はKPMGを提携先に選定。それに呼応する形でKPMG部門(旧センチュリー系)の多くが新日本監査法人から切り離され、あずさ監査法人として独立し朝日と合併した。新日本監査法人は2003年(平成15年)3月末でKPMGとの提携を解消し、海外提携をEYに一本化した。これにより国内の大手監査法人と海外の大手会計事務所とのねじれ提携関係は解消された。一方で多くの大口クライアントがあずさへ移動したため業務収入は大幅に減少することとなった。しかしその4年後、2007年(平成19年)に解散に追い込まれたみすず監査法人 のうち、東京事務所の会計士の大半がクライアントとともに新日本へ移ったため、業務収入は1.5倍へ一転して大幅増加することとなり、国内最大規模の監査法人となった。この際にトーマツやあずさは人員やクライアントの誘致へ向け一定の働きかけを行ったのに対し、新日本は当時の公認会計士協会会長藤沼亜起の出身であった都合上特段の働きかけを行わなかったが、みすずの会計士の多くは自発的に新日本へ移ることを選択した。
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