矢作水力との合併とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:22 UTC 版)
「天竜川電力」の記事における「矢作水力との合併とその後」の解説
大久保・南向両発電所の建設を終えた天竜川電力は、3番目となる泰阜発電所の建設準備中であったところ、矢作水力株式会社と合併することとなった。同社は1919年(大正8年)に矢作川水系の開発を目的に設立された電力会社であり、福澤桃介が設立に関与して相談役に就任し、天竜川電力と同じく福澤駒吉が社長を務めていた。人的な関係があり、また矢作水力が天竜川水系の阿知川の開発に乗り出したことから合併計画が浮上し、1931年(昭和6年)3月、合併契約の締結に至った。天竜川電力の資本金5000万円であり、資本金1290万円の矢作水力よりも資本金額では勝っていたが、合併に際して合併比率は1対1(対等合併)、存続会社は矢作水力とされた。同年4月7日両社の株主総会で合併議決、8月5日鉄道省・内務省より合併認可、8月29日逓信省より合併認可と手続きが進められ、11月17日に矢作水力で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了した。天竜川電力も同日付をもって解散している。 合併により、天竜川の水利権は天竜川電力から矢作水力へと移転した。矢作水力は計画を引き継ぎ、翌1932年(昭和7年)11月に泰阜発電所の建設に着手。同発電所は最大出力5万2,500キロワットという当時中部地方で3番目の規模を持つ大規模発電所であり、かつ天竜川水系で初めてのダム水路式発電所として1936年(昭和11年)10月に竣工した。 矢作水力はその後、日中戦争から太平洋戦争へと続く戦時下において進展した電力の国家管理強化に伴い、設備を日本発送電などに出資して1942年(昭和17年)4月に解散する。天竜川の発電所3か所(大久保・南向・泰阜)はいずれも矢作水力から日本発送電に引き継がれ、さらに戦後1951年(昭和26年)には中部電力に継承されている。なお、日本発送電の手により第七水力地点の計画を修正した平岡発電所の建設工事が進められ、中部電力発足直後の1951年11月に完成した。
※この「矢作水力との合併とその後」の解説は、「天竜川電力」の解説の一部です。
「矢作水力との合併とその後」を含む「天竜川電力」の記事については、「天竜川電力」の概要を参照ください。
- 矢作水力との合併とその後のページへのリンク