矢作水力時代
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1922年2月、今度は矢作水力株式会社に入社し支配人となった。同社は福澤桃介や寒川恒貞らが水力発電研究のため組織した「大正企業組合」を母体とする電力会社で、社名にある矢作川水系の開発を目的として1919年(大正8年)3月に設立されていた。久留島が入社した当時は社長井上角五郎、副社長福澤駒吉、専務杉山栄、相談役福澤桃介という経営陣であった。3年後の1924年(大正13年)4月27日、久留島は矢作水力でも取締役に選ばれた(取締役兼支配人)。 矢作水力は矢作川開発を手掛けたのち1931年(昭和6年)に天竜川電力、1933年(昭和8年)には白山水力を相次いで合併し、矢作川水系のみならず天竜川水系や北陸の九頭竜川水系・手取川水系にも水力発電所を持つ大型電力会社へと発展していく。会社拡大の中、1933年10月26日付で久留島は矢作水力の常務取締役に選任された。常務就任時の経営陣は、社長福澤駒吉、副社長杉山栄・成瀬正忠、常務後藤一蔵・小山柳一(技師長・久留島と同時に常務昇格)という体制で。3名の常務のうち支配人兼任の久留島が筆頭常務の格であった。7年後の1940年(昭和15年)10月31日、会長制の実施で福澤が会長、成瀬が社長にそれぞれ繰り上がり、久留島も常務から副社長に昇格した。 矢作水力以外では、1928年12月、東海曹達の姉妹会社として新たに昭和曹達が設立されるとその取締役に就任(社長は福澤駒吉)。また1933年5月、矢作水力の余剰電力を引き受けてアンモニア合成および硫安・硝酸製造を行う矢作工業(第一次)が設立されると同社でも取締役に就いた。 太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)4月1日、矢作水力は電気事業に対する国家管理の強化によって電気事業設備を国策会社へと出資した。この際、矢作水力では1940年より第一次矢作工業を吸収したことで兼営していたアンモニア工業部門を再独立させた上で自らは解散すると決定、3月31日付で矢作工業(第二次)を設立した。この第二次矢作工業には矢作水力の役員が多く移籍しており、社長には福澤駒吉、副社長には成瀬正忠が就任したが、久留島は取締役には選ばれたものの副社長や常務には就かなかった。
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