佐久間ダム建設
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第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)5月1日、電気事業再編成令に基づき日発東海支店と国策配電会社中部配電を再編成し、発送電と配電を一貫経営する新会社中部電力株式会社が発足した。取締役会長に海東要造、取締役社長に井上五郎がそれぞれ選任され、石川は横山通夫とともに取締役副社長に選ばれた。石川は副社長に就任するとともに、同社電源開発本部長も兼任した。副社長となったのは、井上が中部の電源開発は木曽川開発の実績がある石川に任せたいと考え推薦したためという。 電気事業の再編成が行われた当時は全国的に需要が供給を上回る電力不足の状況にあったので、中部電力は発足直後に電源開発本部を設置し、電源開発計画の策定に着手した。1951年10月には「中部電力電源開発の基本計画」を発表し、飛騨川の朝日ダム、大井川の井川ダム・天竜川の佐久間ダムなど大容量貯水池式発電所を中心に5か年で合計92万キロワットを開発するという開発計画を打ち出した。 電気事業再編成に続いて翌1952年(昭和27年)9月16日、電源開発促進法に基づく特殊会社として電源開発株式会社が発足。同年10月、中部電力が開発を計画していたが進捗していなかった佐久間ダムを電源開発にて開発することが決定した。12月には佐久間建設所が設置された。かくして電源開発に引き継がれた佐久間ダム建設計画であったが、ダム建設が行われる佐久間地点というのは、石川が福澤桃介の命で1921年に現地入りして調査していた地点で、日発東海支店時代もその開発を主張していた場所でもあった。電源開発の手に渡ったものの、石川は理事待遇の嘱託という形で中部電力副社長在任のまま佐久間建設所長となり、工事の陣頭に立つこととなった。翌1953年(昭和28年)4月、佐久間ダムの本工事が着手された。 1953年5月29日付で中部電力副社長を辞任。一方同年6月4日付で電源開発理事に就任した。電源開発に移籍したのは佐久間ダム建設の責任者を外部の人間に任せることに問題視する声が出たためで、中部電力では技術監督の取締役に下がった。同年11月、大規模ダム建設のための技術研究を目的に電源開発・中部電力・関西電力の3社によってアメリカ視察団が編成されると石川は団長となり、自身にとって30年ぶりとなるアメリカ視察を行う。翌1954年(昭和29年)2月帰国。帰国後の3月、渡米中に建設所長事務扱いとして代理を務めていた永田年に佐久間建設所長の座を譲り、本社に移ってそれまで副総裁の進藤武左ヱ門が兼任していた土木部長に就任した。 佐久間ダムはその後1955年(昭和30年)12月よりダムの湛水を順次開始。翌1956年(昭和31年)4月に佐久間発電所が出力25万キロワットにて営業運転を開始し、副ダム完成後の9月からは出力35万キロワットでの運転を始めた。この間の1956年5月29日付で石川は電源開発理事を退任、翌日付で中部電力取締役からも退いた。その3年後の1959年(昭和34年)9月9日、中部電力顧問在任のまま愛知県守山市(現・名古屋市守山区)の自宅で死去した。満72歳没。
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