佐久間ダム建設とは? わかりやすく解説

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佐久間ダム建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/24 18:07 UTC 版)

石川栄次郎」の記事における「佐久間ダム建設」の解説

第二次世界大戦後1951年昭和26年5月1日電気事業再編成令に基づき日発東海支店国策配電会社中部配電再編成し発送電と配電一貫経営する新会社中部電力株式会社発足した取締役会長海東要造、取締役社長井上五郎それぞれ選任され石川横山通夫とともに取締役副社長選ばれた。石川副社長就任するとともに同社電源開発本部長兼任した副社長となったのは、井上中部電源開発木曽川開発実績がある石川任せたい考え推薦したためという。 電気事業再編成が行われた当時全国的に需要供給上回る電力不足の状況にあったので、中部電力発足直後電源開発本部設置し電源開発計画の策定着手した1951年10月には「中部電力電源開発基本計画」を発表し飛騨川朝日ダム大井川井川ダム天竜川佐久間ダムなど大容量貯水池式発電所中心に5か年合計92キロワット開発するという開発計画打ち出した電気事業再編成続いて1952年昭和27年9月16日電源開発促進法に基づく特殊会社として電源開発株式会社発足同年10月中部電力開発計画していたが進捗していなかった佐久間ダム電源開発にて開発することが決定した12月には佐久間建設所が設置された。かくして電源開発引き継がれた佐久間ダム建設計画であったが、ダム建設が行われる佐久間地点というのは、石川福澤桃介の命で1921年現地入りして調査していた地点で、日発東海支店時代もその開発主張していた場所でもあった。電源開発の手渡ったものの、石川理事待遇嘱託という形で中部電力副社長在任のまま佐久間建設所長となり、工事陣頭に立つこととなった。翌1953年昭和28年4月佐久間ダム本工事着手された。 1953年5月29日付で中部電力副社長辞任一方同年6月4日付で電源開発理事就任した電源開発移籍したのは佐久間ダム建設の責任者外部人間任せることに問題視する声が出たためで、中部電力では技術監督取締役下がった同年11月大規模ダム建設のための技術研究目的電源開発中部電力関西電力の3社によってアメリカ視察団が編成される石川団長となり、自身にとって30年ぶりとなるアメリカ視察を行う。翌1954年昭和29年2月帰国帰国後の3月渡米中に建設所長事務扱いとして代理務めていた永田年佐久間建設所長の座を譲り本社移ってそれまで副総裁進藤武左ヱ門兼任していた土木部長就任した佐久間ダムその後1955年昭和30年12月よりダム湛水順次開始。翌1956年昭和31年4月佐久間発電所出力25キロワットにて営業運転開始し副ダム完成後の9月からは出力35キロワットでの運転を始めたこの間1956年5月29日付で石川電源開発理事退任翌日付で中部電力取締役からも退いたその3年後の1959年昭和34年9月9日中部電力顧問在任のまま愛知県守山市(現・名古屋市守山区)の自宅死去した。満72歳没。

※この「佐久間ダム建設」の解説は、「石川栄次郎」の解説の一部です。
「佐久間ダム建設」を含む「石川栄次郎」の記事については、「石川栄次郎」の概要を参照ください。

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