台北遷都後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 06:48 UTC 版)
第二次世界大戦後、戦中は抗日という点で一致していた蔣介石の中国国民党と、毛沢東が率いる中国共産党が再び分裂、国共内戦を再開する。ソ連が支持する中国共産党の勢力に負け、共産党による中華人民共和国の建国後、米国からの支援を打ち切られていた中国国民党の中華民国政府は、台湾に移転し、台湾国民政府として形成を立て直し、「反攻大陸」を掲げて本土への反撃し、共産党を倒し大陸支配を回復する機会を伺っていた。一方、共産党は台湾を国民党から「解放」するため、台湾へ侵攻しようとしていた。 当時は冷戦が開始していたが、米国は当初、台湾を支持せず、中華人民共和国を承認しなかったものの、中立を宣言し、どちらも支援しないとした。米国は台湾が共産化しても仕方ないと諦めかけていたと考えられる。この時点では中華民国政府の存続も風前の灯であった。 しかし、朝鮮戦争が勃発すると中華人民共和国は北朝鮮の支援のために、非正規軍とする義勇軍(実質は中国人民解放軍)を派遣したため、台湾侵攻をしている場合ではなくなり、また米国政府も戦争で韓国が劣勢になったのをみて、アジアでの共産主義拡大を恐れ、方針を転換し、トルーマン政権は台湾の中華民国政府への経済的および軍事的援助を再開し、共産中国による台湾の侵略を阻止するために米国第7艦隊を台湾海峡に派遣し、共産中国へ軍事的圧力をかけたため、台湾侵攻は実行されなかった。また、軍事同盟の米華相互防衛条約が1954年に米国と中華民国との間で締結し、他にも、米国は台湾に対外援助法、米国議会によって制定された相互安全保障法および国際開発法に基づく財政的助成金を提供した。これらの枠組みによる支援は1979年の米中国交正常化に伴う米台断交(米華断交)まで続く。 ただし、米国は台湾海峡の緊張の高まりを望んでおらず、第三次世界大戦の勃発を恐れ、中華民国政府の「反攻大陸」を支持しなかった。 また、過去には台湾による核兵器の開発疑惑が存在した。米国は、台湾による核武装に反対の立場を取ってきた。現在、台湾は核拡散防止条約を批准、現在では核兵器製造の意図はないと宣言している。当時、平和利用のためにカナダから実験用反応炉や、米国から低濃度のプルトニウムなどを含む、核技術・核物質を得たと言われている。しかし、それらは実際には核兵器を開発するために使われていた。国際原子力機関が、台湾が兵器級のプルトニウムを製造しようとしている証拠を掴むと、1976年にアメリカは軍事協力の停止などをちらつかせた圧力を掛け、台湾の指導者たちに対し核兵器開発計画の放棄を求めた。1980年代にも核兵器開発計画があったが、アメリカに亡命した張憲義大佐によって秘密計画が暴露され、参謀総長だった郝柏村は台湾の科学者が既に原子炉を製造したと認めた。この計画も米国の圧力と総統・李登輝の命令で中断された。 「中華民国の大量破壊兵器」も参照
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