古典の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 21:58 UTC 版)
古代ギリシアでは紀元前4世紀までにマラリアは広く認識されており、多くの都市国家での人口減少と関係している。「汚れ、汚染」を意味する μίασμα (ミアズマ、瘴気) という語がコス島のヒポクラテス (紀元前460-370) によって作り出され、「風によって運ばれ深刻な病気を引き起こす、地から立ち昇る危険な蒸気」を意味する語として用いられた。「医学の父」として知られるヒポクラテスは、マラリアの間欠的な発熱を気候的・環境的要因に関連付け、その周期性によって、希: tritaios pyretos / 羅: febris tertiana (3日ごとの発熱) と 希: tetartaios pyretos / 羅: febris quartana (4日ごとの発熱) に分類した。 中国で紀元前300-200年頃に成立したとされる『黄帝内経』は、肥大した脾臓に関連した周期的な発作性の発熱と、流行発生の傾向について言及している。紀元前168年頃には、青蒿 (クソニンジン Artemisia annua) による薬草治療が登場し、女性の痔の治療のために用いられた (馬王堆漢墓から出土した『五十二病方』)。青蒿は、4世紀、葛洪によって著された『肘後備急方』において、急性の間欠的な発熱に対する効果的な治療法として初めて推奨された。彼は、新鮮なクソニンジンを冷水に浸して搾り、苦い搾り汁を生のまま服用することを推奨した。 インド亜大陸では、最初の農耕地であったインダス川宙域から高温多湿のガンジス川流域へと耕作が拡大するにつれて、人びとはマラリアなど新たな感染症に悩まされるようになったと考えらえる。 ヨーロッパでは古くから地中海世界で流行した。ことに「ローマ熱」は、歴史の様々な時点でローマ・カンパーニャ(英語版)とローマの都市部に影響を与えた、特に致死性の高いマラリアのことである。5世紀のローマ熱の流行は、ローマ帝国の崩壊の寄与した可能性がある。ペダニウス・ディオスコリデスの『薬物誌』(De Materia Medica) にみられる、脾臓を縮小させるための多くの治療法は、ローマ帝国における慢性的なマラリアへの対応であったと示唆されている。古代末期のいわゆる "vampire burial" は、マラリアの流行に反応して行われた可能性がある。例えば、ルニャーノ・イン・テヴェリーナのネクロポリスに埋葬された、マラリアで死亡した子供は、死体が蘇ることを防ぐ儀式が行われていた。現代の学者は、死者が復活して疫病を拡散することをコミュニティが恐れたためではないかと予想している。 835年には、教皇グレゴリウス4世の「夏のローマは集まった多数の巡礼者を収容できないという実際的な理由」に基づく要請によって、ハロウマス(諸聖人の日)が5月から11月に移動されたが、これはおそらく蒸し暑い夏の間に多くの巡礼者の命を奪っていたローマ熱に対する公衆衛生面での考慮のためである。
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