区割りをめぐる議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 00:18 UTC 版)
配電統制が具体化されていく中で、各地の配電特殊会社の供給区域をどのように設定するかという区割りの問題が浮上した。まず1940年10月7日の電気庁内の会議では、全国を以下のように9ブロックに分割する案が決定された。 北海道地区 : 北海道一円 東北地区 : 東北地方6県、ただし福島県の新潟電力区域は除く 関東地区 : 関東地方7府県と山梨県・静岡県、ただし群馬県の長野電気区域を除く 北陸地区 : 新潟・富山・石川・福井4県と長野県の南信地方以外、福島県内の新潟電力区域、群馬県内の長野電気区域 中部地区 : 愛知・岐阜・三重3県と長野県南信地方、ただし岐阜・三重両県の宇治川電気区域を除く 関西地区 : 近畿地方6府県と岐阜・三重両県の宇治川電気区域、ただし兵庫県の山陽配電区域は除外地区名は案の中では関西地区ではなく「大阪地区」とある。 中国地方 : 中国地方5県と兵庫県の山陽配電区域 四国地区 : 四国一円 九州地区 : 九州一円と沖縄県 この案では長野県は県内が南北に分割されるため長野県知事から反対意見があり、北陸ブロックをめぐり電気庁内で議論が続けられた。その後10月24日になり、各省との調整を経たうえで電力管理調査会が北陸・中部のブロックを統合した全国8ブロック案を発表した。ところがこの8ブロック案は、富山・石川・福井3県による北陸ブロックの独立運動を招く。それでも1941年4月、逓信省が発表した「配電事業統合要綱」では全国を8ブロックに分割するものとされた。 この時期北陸地方では、日本海電気(富山県)社長山田昌作の主唱によって北陸地方の電気事業者を合同する動きが進んでおり、1941年3月には日本海電気や高岡電灯など合計12社による合併契約の締結に至っていた。主導する山田昌作は北陸ブロックの独立が持説であり、先に北陸地方の自主統合という既成事実をつくり、逓信省への陳情を続けることで独立の実現を狙ったという。同年8月1日、北陸地方12社の合併で北陸合同電気が発足する。2日後の8月3日、8ブロックのうち中部地区に限っては暫定的に2つの特殊会社を設立するという形で北陸ブロックの独立が認められ、配電特殊会社の数は9社とすることが決定された。 他方、中国合同電気(岡山県)社長牛尾健治も山陽中央水電との合併により兵庫・岡山両県にまたがる供給区域を持つ山陽配電(本社は兵庫県神戸市)を1941年5月に設立し、中国地方を岡山・鳥取・島根の3県に兵庫県を加えた西部ブロックと広島・山口両県のみの中国ブロックに二分する独自の構想を唱えた。また九州地方においても、熊本県の関係者が福岡県主導の再編に反発し、九州における逓信省の業務を統括する逓信局が熊本市にある(熊本逓信局)のを根拠に九州の2ブロック分割を主張していた。しかし北陸ブロックの暫定的独立を除いて逓信省が容認することはなく、山陽・熊本ブロックの出現は阻止され全国9ブロック体制が確定された。
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