北京での進貢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「北京での進貢」の解説
通例、10月の初め頃に福州に到着する進貢使は、到着後しばしの休養の後、進貢使ら約20名のメンバーで北京へ向けて出発する。出発前、福州の当局者は上京組を餞別する宴席を設けるのが慣例となっていた。規定では進貢使らは北京に12月20日までに到着しなければならなかった。これは元旦に行われる皇帝への拝謁式に参列するためである。天下万民が皇帝を宗主として慕い、清の天下が太平で揺るぎのないものであることを示すために、冊封国からの使節は元旦に行われる朝賀に出席するよう定められていたのである。 福州から北京までは約3000kmある。3000kmの道のりを10月初めに出発して12月20日までに北京へ到着するとなると、道中に何か事故が起きると当然、期限に間に合わない事態も発生する。清の初期から乾隆帝の1769年まではは福州の官吏が一名、進貢使一行に同行する形であったが、1769年は期限に間に合わず、年を越してから北京に到着するという事態が発生すると、乾隆帝は福州側の官吏とともに行程中の各省においても進貢使の護送のために人員を随行させるように命じた。 なお、19世紀半ば以降の咸豊、同治期は、新年以降に北京に到着するようになり元旦の朝賀には参列していない。これは太平天国の乱やアロー戦争等の影響を受けて北京へ向かう行程に支障があったためである。また三藩の乱の時期に当たる1674年、1676年には進貢が出来ず、そして1860年と1862年は上京出来なかった。 北京へのルートは清当局によって指定されていた。琉球の進貢使の場合、陸路、そして大運河等を使用する水路があった。現実問題として指定ルートが使えない場合も起きる、その場合、許可を得た上で通常とは異なるルートを取ることもあった。なお、少なくとも往路に関しては通常は陸路を進んだ。それは12月20日までの北京到着という期限が定められているため、陸路よりも遠回りとなる上に、冬季の凍結、そして渇水の影響を受けることが多く、しかも混雑することも多かった水路よりも陸路の方が到着期限を守りやすかったためである。 北京には外城の広寧門から入城した。入城時は担当者の出迎えを受け、各国からの朝貢使節の宿泊施設である会同館へ案内される。会同館に着くと使節一行に衣服と日用品が支給された。前述のように北京到着は基本的に12月20日前であり、厳冬期用の衣服は必需品であった。北京滞在中は食料品も配給され、コックやハウスキーパーも派遣された。進貢使ら高位の使者が外出する際には馬車が配車された。北京への往復、そしてこれら北京滞在時の費用は全て中国側持ちであった。 進貢使が予定通り12月20日までに北京に到着すれば、正月の祝賀行事に参列することになる。正月行事のハイライトはもちろん元旦に行われる皇帝への拝謁である。元旦、皇帝は紫禁城の正殿である太和殿で、清朝の官吏そして外国使節の拝謁を受ける。また元旦以外にも万寿節と呼ばれた皇帝の誕生日、そして冬至にも拝謁式が行われ、琉球の進貢使も北京に滞在している場合には参列した。 進貢使は節目節目で宴席に招かれた。北京に到着するとまず担当部局から「下馬宴」、正月や万寿節など皇帝への拝謁を行った後は皇帝が宴席を設け、進貢使をもてなした。皇帝の宴席では使節に賞賜品を賜った。そして進貢を終え、北京を離れる際にも担当部局が「乗馬宴」の宴席を設けることになっていた。
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